大阪市生野区ってどんなまち?
現在、毎日をワクワクさせるプロダクトアイデアを募集している生野ものづくりタウン事業(通称:IMT「以下、IMTという」)。
IMTは、大阪市生野区と株式会社友安製作所が立ち上げた「ものづくりを面白がる」プロジェクトです。少しでもこの事業に興味を持ってほしい、たくさんのクリエイターの皆さんにこの大阪市生野区というまちを知ってほしい、そんな想いで今回、記事を書きました。
この記事を読んで、少しでもプロダクトアイデアのヒントになれば嬉しいです。
▼毎日をワクワクさせるプロダクトアイデア募集ページ
”生野”の名前の由来
生野(いくの)の「いく」には、「生きる」という意味の他に、生命力が強く盛んであるという意味もあります。つまり、生野という言葉は、生命力の強い野といった意味があります。
明治22年に、國分村、舎利寺村、林寺村、林寺新家村、田島村が合併して「生野村」ができました。生野村の名前の由来は、生野長者の伝説に由来していると言われています。
現在の舎利寺1丁目2番街区にある「舎利尊勝寺」の、「舎利寺の鐘」の周りには区の由来となった大昔の物語が漢字で刻まれています。この物語によると 1300年程前、この辺りに「生野長者」といわれる立派な人が住んでおり、長者には子供がいましたが言葉が話せなかったといいます。ちょうどその頃、四天王寺におられた聖徳太子は、子供に向かって「あなたは知らないが、生まれる前に仏舎利を預けてある。今すぐ返しなさい」と言われました。
子供は、口から仏舎利を3個はきだし、聖徳太子はその仏舎利の1つを奈良の法隆寺へ、もう1つを大阪の四天王寺へ納め、残りの1つを生野長者に渡されました。それから子どもは言葉を話すようになり、長者は喜んでお堂を建て仏舎利を奉りました。
そして「区」の誕生とともに生野長者にちなみ、「生野区」と名付けられ、昭和18年4月1日に、東成区より分区して生野区が誕生しました。
*仏舎利:釈迦の遺骨のこと。
ものづくりの歴史
生野区のものづくりの歴史を振り返ると、江戸時代に行われていた農業の副業に行き当たります。片江の墓石や田島の眼鏡レンズ、大地の眼鏡枠などです。(実は、現在、眼鏡の産地で有名な福井県鯖江の眼鏡も生野から伝わったそうです。)
その後、明治後期から大正にかけて、大阪市内の卸問屋から発注を受ける形態で製造工場が創業され、工場が発展しました。
主に、鏡、メリヤス、染織、ボタン、洋傘骨、ブラシ、履き物、塗料、セルロイド、ゴム、ガラス製品、機械金属など多種多様です。
昭和初期には耕地整理などが進展し、主要道路開通により製造業の立地条件が整ったことで、旧市内からの企業移転が相次ぎました。こうした中、セルロイドは当時の新素材として、文具、眼鏡枠、万年筆、ブラシ、鏡といった商品とともに地域の有力な産業として発展しました。
また大阪砲兵工廠における鉄鋼、材機、治金、金属加工、化学などの分野で技術開発、職工育成の成果を受け生野地域をはじめとして東部大阪地域に機械、機械部品、金属関連の産業集積が形成されます。戦時期、この地域の製造業は軍需用工場に指定されるなどの経過を経て戦後を迎えました。
戦後、高度経済成長とともに、食品、衣服、繊維製品、化学、印刷、金属、機械などの製造業が拡大し、ものづくりのまちとしてのピークを迎えます。この時期に、一部企業には製造・本社機能を地域外へ移転する動きも見られました。
近年では、産業経済の構造転換、発展途上国とのコスト競争等の課題を抱えながらも、江戸、明治、大正、昭和の伝統を誇るものづくり、IT、デザイン、福祉、環境などを切り口とした新たなものづくりが取り組まれています。
生野ものづくりタウン事業(IMT)
改めて、IMTは、「ものづくりを面白がる」をコンセプトに大阪市生野区のものづくり企業5社と新たなものづくりに挑戦するプロジェクトです。
「毎日をワクワクさせるプロダクトアイデア募集!ものづくりのまち生野区の共創プロジェクト2期」と題して個性あふれる5社とともに、新たなものづくりに挑戦するデザインパートナーを大大募集です!
そもそも、生野ものづくりタウン事業とは何なのか気になるという方、本事業がどのような流れで進んでいくのか気になる方は下記の記事をご覧ください!
また2期目となる今年は、アツい想いをもった5社に参加いただいています!企業様の情報は以下よりご覧ください!
参考
https://www.city.osaka.lg.jp/ikuno/page/0000000072.html
https://www.city.osaka.lg.jp/ikuno/page/0000000082.html
https://www.city.osaka.lg.jp/ikuno/page/0000160822.html