困窮層DE京大出身の僕の今昔物語 黒のピース4「不法侵入で夜逃げキャンプ」
最近アウトドアの中でもキャンプが流行っているらしい。
オシャレな道具やらを積み込んで、キャンプ場に行くことは楽しいことらしい。
僕も、夜逃げ中の山中のキャンプをそこそこ楽しんでいた。
1ヶ月ほど、その広島県にあった山から父は運転をしていなかったので、僕は海にボチャンで死ぬことは免れていたし、普段は家にあまりいない父と過ごす時間は楽しかった。
不法滞在をしていたけれど、自然の中で心が清められたのか、両親は僕に手をあげることはなかったし、母の雄叫びも車内と違って響き渡ることもないので快適だ。
両親の精神状態もボロボロだった時、ふいに父が広島県に行くと言い出した。
両親の新婚旅行先が広島県だったことから、選ばれた土地だった。
その中でも田舎の、そこそこ標高の高い周りが全部山しかなくて民家が遠くに見えもしない山の中で父は車を止めた。
枝を父と探しに行くときは、空腹も忘れて楽しんでいた。
まるで探検ごっこをしているような気になって、僕はまだ笑えていた。
広い集めた枝やら蔓を車に被せ、恐らく外から車や人がいることを見えにくくしたかったのだろう。
更に車の上にはブルーシートの四隅の穴に長めの蔓を通し、頑丈そうな太い木に繋げ、テントのようにして車を覆い隠した。
ブルーシートからはみ出したボンネットの上には、やや変形したバケツが置かれて飲み水を確保していた。
父がビールのプラスチックケースを車から取り出して足場にすると、ブルーシートの上に落ち葉をばっさばっさとかけていく。
僕も手伝ったが、中央にたるみが出ていたから葉っぱは真ん中に溜まっていた。
屋根が完成すると、父は持ってきたレトルトカレーの封を開けて、そのままそこにスプーンを突っ込んで僕に渡した。
1日に菓子パン1個の日が続いていたけれど、パン以外の初めての食事だったことを鮮明に覚えている。
子供用の甘口カレーではなく、辛口のカレーだだったのに舌が麻痺していたのかあんパンのように甘く感じた。
冷たいままのカレーに僕は喜んで、その姿を見た母が家族旅行に来て初めて笑った瞬間だった。
「しょーもないもんで喜んでるわこの子」
夜は、父は車内で寝て母と僕はブルーシートの屋根の下に薄い虹色みたいなレジャーシートを敷いて寝た。
毛布を2枚被って寝ていたけれど、落ち葉でふかふかの寝床にはほど遠く、尖っている石やゴツゴツした石が背中や頭、太ももに刺さった。
なるべく痛くない場所を探して体をもぞもぞさせても、特に何も変わらない。
顔の上を虫か何かが這いずり回れば叫んで飛び起きることもあったし、鳥の鳴き声や葉のこすれる音や、ごおごお聞こえる風の音に僕は最初の頃は怯えていた。
頭まですっぽり毛布を被っても、寒さで震えていた。
地面から体中が冷える。
秋の夜の山は、日に日にぐっと冷え込んだ。
何度か寒さか空腹で震えることなく、朝になっても足も手も動かせない日があった。
「もうあかんか」
目だけ見開いている僕に、父が不気味に微笑みながらそう言う度に僕は全身の血液を沸騰させてやるというような力を入れて、なんとか立っていた。
そうこうしている間に僕の4歳の誕生日が来て、僕は三色団子とジェンガを手にしていた。
そして、ちょうどその頃両親は車の反対側の太い木の幹に直径30センチ程度の輪っかを3つ垂らしていた。
その紐は母が、山中に入る前のどこかの工場の横の道に駐車している時に盗んできたもので、段ボールをまとめておくようなプラスチックでできた平べったい紐だった。
僕はその輪っかを木のブランコと呼んで、毎日父に脇の下を持って抱えてもらいながらぶら下がって遊んでいた。
手のひらに1、5センチ程度の幅の線がくっきり刻み込まれるまで僕は遊んでいた。
遊びのルールは簡単で父が「よう頑張ったな」と言ってくれるまで、ひたすらその手を離さないこと。
一度、手が痛くて離して落ちた時、能面のような顔で両親にこう言われた。
「「次はないで」」