『母を亡くして』…茅ケ崎へ
2023年7月9日に逝去した母にまつわる話です。
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今日は、両親が結婚直後に住み始めた茅ケ崎に来ている。
亡くなった母の銀行口座を閉じるにあたり、
母が戸籍を置いていたすべての場所の謄本を得る必要があり、
この日、茅ケ崎市役所を訪れたのだ。
私はここで生まれた。
この地を離れたのは40年近くも前のことだ。
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私たち家族が住んでいたのは、平和町という茅ケ崎の外れ。
近くに辻堂行きのバス停があったこともあり、
買い物などの用事は辻堂駅を使うことが多かった。
今日も、当時を思い出すため敢えて辻堂駅からバスに乗った。
「東光ストア」がランドマークだったが、
その建物はおろか、バス停のある駅前は寂しい限りだった。
バスに乗り込み、「平和学園前」で下車。
学園をみれば見当がつくと思っていたのだが、あまりの変化に面喰う。
平和学園の隣は、病気の子供たちの収容施設と記憶していた。
全体的な印象はかなり変わっていたが、
敷地の隅にあった当時の石の門柱が手掛かりとなり、
私の生家跡にたどり着くことができた。
丘のような土地の稜線に道が敷かれ、
左右それぞれ20軒ほどの家が立ち並ぶ。
新しい家がすき間もないほど密集している。
私たちの家は取り壊され、小さなアパートに建て替えられたと
ずいぶん前に聞いていた。
実物をみた。
どこにでもある単身者向けのアパート。
ベランダに黒のウエットスーツが干してあるのは、
いかにも海沿いの街らしいが、
面影は何一つ残っていなかった。
なのに、丘を歩く私の目には40年前の景色が映っていた。
当時は道も舗装されておらず、空き地がいくつもあった。
白い房状のニセアカシアの花の蜜を吸ったり、
ヤマゴボウの紫色の実を絞って色水遊びをしたものだった。
隣のお宅の、見覚えのあるブロック塀。
小さい頃、言いつけを守らないと母は反省を促すため“家出”をした。
姉弟は母の不在にパニックとなり「おかあさ~ん」と泣き叫んだり
暗いなか、門扉まで出て母の姿を探したものだった。
じつは隣家の塀には大人1人が隠れられる凹みがあった。
母は家出と言いながら、そこに身を隠し、
私たち姉弟の反省度合いをうかがっていた。
そして、頃合いを見計らっては家に戻ってきた。
いま思えば、電柱に蛍光灯が1本灯る程度の街灯は、相当暗かっただろう。
母が隠れていたブロック塀の凹みを目にしたとたん、
思いが一気にあふれ出し、涙で景色がにじんだ。
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再びバスに乗り、
茅ケ崎市役所で除籍になった謄本を取り寄せた。
「せっかくだから海岸に向かおう」と、
(加山)雄三通りを20分ほどかけて歩き、
国道134号線を渡って松の防風林を越え、砂地の海岸に出た。
スニーカーのなかに砂が入ってしまわないよう、
波打ち際まで走ると、夕暮れの海をしばらく見ていた。
太平洋側の海は、日暮れるにつれて空も海も鈍い青鼠色に変化する。
私たちが住んでいた当時の東海道線は、
線路を貨物列車と共有していたため、
東京からの下り電車は夜になると30分に1本しかない。
父の帰りも遅く、いまのような通信手段もないなかで、
子ども2人と一日を過ごす母は、どんなことを考えていただろう。
久しぶりの波の音、
懐かしく悲しい茅ケ崎という街との再会。
母の人生をなぞる小さな旅は終わった。