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『母を亡くして』…父の手料理

※画像は父が家族にふるまった手料理

母が入院した日と同じくして、
福岡から弟が緊急帰省し、
そこから父、弟、私のにわか3人生活が始まった。
   *   *   +
別の章にも書いているが
父は退職する少し前に、料理学校に通った。
“定年離婚”と言う言葉が流行っていた頃で、
父の身勝手に呆れた母はたびたび、
「子供たちが20歳を過ぎたら離婚する!」と他人の前でも宣言していた。
それを気にしていた父は当時、
「せめて料理を覚えて女房孝行したい」と、
新橋第一ホテルの「男の料理教室」に、母に内緒で通っていた。

母には亡くなる1か月前までホスピスの清掃員という職があり、
料理、洗濯、掃除、買い物と家のことは長いこと父の担当だった。

*   *   *

気を紛らわすためだったのだろうか。
私自身を含め3人は、悲しみで沈み込むと思っていたのだが、
意外にも父は、勇んで料理していたように思う。
身長175センチほどの父が
エプロンをして台所に立つ姿はかわいらしかった。
どこで覚えたのか、サツマイモの揚げ春巻き、
自分の畑でとれたナスと豚バラ肉の炒め物。
それらを、あっという間にダイニングテーブルに並べていく。
(この量、食べきれるかなぁ)
正直なところ、中年となった娘と息子が食べるには、
多すぎる量が提供されたのだが、
「残しては申し訳ない」とがむしゃらに食べる。
完食⇒また父が一品追加する…の悪循環(笑)。

我が家はみな酒好きで、食事のお供にお酒があった。
お酒が入るからこそ語れる、
母についての三者三様の想いを
話したり、飲み込んだりしながら、
酔いつつ食べつつ、夜を過ごした。
初めて明かされたマイホーム建設の裏事情や、
母の趣味であった琉球舞踊を父が応援していて、
某イベントに出演依頼していたこと。
ほかにも知られざる話がたくさんあった。

こんな食生活だったのに、
気づけば私は体重が2キロも減っていた。

   *   *   *

にわか3人生活は、
弟と私の勤め先の事情…いわゆる忌引の期限により終了を迎えた。
まず弟が福岡に戻り、
ぎりぎりまで実家に残った私も、
翌日からの出勤に備えて都内の自宅に戻った。

じつは、弟には辞令が出ていて、
8年過ごした福岡を去り8月から東京勤務が決まっていた。
その話はまだ元気だった母の耳にも届いていた。
どんなに楽しみにしていたことか。
命日は7月9日、母の寿命があと2か月延びていたら…。

(了)

#創作大賞2024 #エッセイ部門