夢を追うことの虚しさと歓びについて(後編)
先日のノートでは、ぼくが弁護士を目指すことをやめ、脚本家という夢を描いて、その道を進もうと決意したことまで書きました。
今日はそこからここ(2018年12月31日)までの話をしようと思います。
と言いつつも、それ以降のことについては、実はノートにも繰り返し書いています。
同じことを書いても仕方ないので、ここでは「夢」を追うことについて、書いてみようと思います。
ある本で読んだことばがあります。
「夢を持った人はとても幸せで、とても不幸な人だ」と。
小学生が無邪気に夢を語る時期を過ぎてもなお、「自分は◯◯になりたい」と語ることができるということは、あまりにも素晴らしいと思います。夢を持てている、その事自体に幸福を見出している自分もどこかにいます。
特に、これまでの人生はとにかく人(特に家族)の望む自分になることを軸にいきてしまっていたからこそ、自分の望む自分が描けることはそれ自体、本当に幸せです。そして、その夢にまっしぐらになる時間が持てることもとても幸せです。
もちろん、夢は叶うこともあれば、叶わないこともあります。夢が叶わなかった、という挫折は夢を持たなければ味わなくてすむ挫折です。夢を追ったことによって、その苦しみを味わうかもしれません。そして、夢を追い出した瞬間から、この挫折と隣り合わせになってしまいます。そんな人生は、とても不幸とも言えるかもしれません。
それでもぼくは、「なんで夢なんて持ってしまったのだろう」とは思っていません。
ぼくの命は間違いなく限りあるもので、その見えない終点に向かって日々進んでいる。だとすれば、その一瞬の生において、やれることはやってみたい、そう思うんです。
ぼくの大好きな作家は言いました。
「才能とは、夢を見続ける力のことです」と。
ぼくは、この才能を持ち続けることができるのか、分かりません。
でもぼくは、夢を見てしまいました。果てしない夢のその先にあるものが何かなんて分からない。家族からは日々冷たい視線にさらされますし、少し遠くに住んでいる親戚の落胆の声も聞こえています。正直に言えば、それはそれで気になるし、なんだか虚しい気持ちになるときもあります。
それでも、ぼくは夢を見てしまった。
自分の物語によって、沢山の人の孤独に寄り添いたい。
電車のとなりに座るあなたに直接声を掛けることはできないから、
あなたは今、外に出ることすらままならないかもしれないから、
ぼくはテレビという媒体を通して、やわらかくて温かな勇気が湧いてくる、そんなドラマ(物語)をあなたに届けたい。
そして夢が叶った暁に、あらゆる人と人生そのものに絶望しきっていた中学生の頃の自分に言ってあげたいんです。
「大人になれば、いいことあるよ」と。
「お前の物語を待っている人がいる、そんな素晴らしい未来が待ってるぞ」と。
時間がかかってもいいと思っています。
神様がいるのかは分かりませんが、神様のような何かが根負けするまで書き続けてやろうと思っています。
1年間、ありがとうございました。
これからも応援、よろしくお願いします。