忘れ花~wasurebana~後編
私は途方に暮れていた。
身体の疲れと、花が見つからない絶望感、そして密かに淡い期待をしていた妻の日記・・・
とにかく疲弊していた。
再びゴロンと大の字に寝転がり、目を閉じ暗闇の中で妻の顔を思い浮かべた。
が、よく見えない。
笑っているのか、怒っているのか、泣いているのか・・・
そうしていると、段々暗闇が深くなり眠りについた。
―――
ここは・・・自宅の寝室だ。
起き上がり、ドアを開けキッチンへ。
「おはよう、休みの日なのに早いのね」
一瞬、息が止まった。
そこにいたのは、妻、その人だ。
夢だという自覚はうっすらあるが、亡くなってから一度も見ることのなかった妻が今、あまりにもリアルに目の前にいることに戸惑いを隠せない。
そんな私を見て、
「どうしたの?笑」と笑いかける妻。
―ああ、この顔だ。長らく見ることのなかった笑った顔・・・
もうこの夢でいい。十分だ。
「いや、なんでもない。おはよう」
それから私は妻とテーブルに向い合せで座り、ゆっくりと朝食を食べることにした。
驚くことに、夢なのに味がちゃんと感じられる。なつかしい、妻の味だ。
妻は日常の出来事を色々と話てくれる。どこか聞いたことがあるのは、きっと日記を読んだからだろうか。
そんな話を聞きながら、ふと自分のこれまでの日常を思い出す。
現実では、休みの日は疲れて昼まで寝て、起きてからも持ち帰った仕事を一日書斎に籠ってしていたので、食事も片手間にその部屋でしていたし、平日は朝にこんなゆとりはなく、支度をしたらすぐ出ていく生活。
・・・妻と挨拶すらしないまま。
そして日付が変わってからの帰宅も多く、夕食は外で済ませていた。
そう考えると、こうやって妻と食卓で食事をすることがこれまでいったいどれぐらいあっただろう。最後に一緒に食事をしたのは・・・
「食べないの?味、合わない?」
箸が止まっている私を妻が覗き込んでいた。
「いや、おいしいよ」
そう言って、食べるのを再開する。
「よかった・・・」
妻は嬉しそうに私が食べるのを見ている。よく見ると妻は一口も手をつけていない。
「おまえこそ、食べないのか」
そう聞くと、「私はもうお腹いっぱいになった」と悲しげな笑顔で言う。
それを聞いた私は、ふっと妻の体調・・・精神状態が心配になった。
まさか夢の中でも・・・
「大丈夫なのか、体調とか・・・悪いのか?」
私は妻の表情を伺うようにじっと見た。
すると、そんな私をじっと見つめ返した妻の目には涙を浮かべている。
私はそんな妻を見て、
「おい、どうしたんだ?なんでも言ってくれ、じゃないと・・・」
「ああ、本当に幸せ・・・」
そう言って微笑んで目を閉じ、すっと涙をこぼした。
「お、おい・・・」
困惑気味な私に妻はこう続けた。
「あなたがこうして目の前にいるだけで十分なの。だからお腹いっぱいになっちゃった」
―なんてことだ。それは 私のセリフだ。
もしかしたらまた夢も見れないかもしれない。
なら、私は言わないといけない。この山に来た目的である言葉を妻に今、伝えないと。
そう、それは妻への謝罪だ。
息を吸い、私は言葉を言い出しかけた瞬間、
「謝らないで!」
と妻が大きな声で遮った。
「謝らないで。こうやって会えたんだから・・・」
「え?」
私は驚いた。
「あなたがこうやって会いに来てくれた、それだけで私は嬉しい」
・・・これは夢の筈だ。
戸惑う私をよそに妻が続ける。
「もういいのよ、あなたが謝ることなんてひとつもないのよ」
「どうしてそれを・・・」
妻はすべてを悟っているかのような、深い笑顔で私に
「いいの。」
と言った。
「でも・・・っ!!」
私はテーブルに手をつき、前のめりになりながら、何か言わなければ、そう、今しかない、なのになんて言えばいいのか必死に言葉を探す。
「あなたが後悔していること、どうして私に会いに来たのか、わかってる。でもあなたに望むことなんてないよ。あなたのことを恨んだりしていたわけじゃない。辛いと思ったこと、さみしいと感じたことも、もう忘れちゃったわ、ふふ。」
妻は目を細めて小さく笑った。
「こうやってあなたともう一度、挨拶を交わしたり、一緒に食事をして私の料理をおいしいと食べてくれる。話を聞いてくれて、心配までしてくれる・・・昔に戻れたみたいでうれしかった。」
「・・・ああ、本当に。昔に戻ったみたいだ・・・」
いつの間にかすれ違った生活も、最初からだったわけじゃない。
そうだ、こういう生活も確かにあったんだ。忘れていた楽しかった思い出がよみがえり、自然と口元が緩む。
「・・・私は弱かった、それだけ。
あなたにも時間があれば、、、お互い自分に精一杯過ぎたのね。」
私は妻が紡ぐ優しい言葉に、私は涙を流していた。
妻がそっと私の手を包む。
ああ・・・なんて、なんて幸せなんだ。
「そろそろ、時間ね」と妻が切り出した。
そう、夢であっても何であっても時間には限りはある。
そして幸せな時間というのはあっという間に過ぎ去るもの。
「そうか・・・」
どうして私はこんな幸せを置き去りにしていたんだろう。
人は当たり前の大切さを見失う。
離れたくない、だけど。
「―ありがとう、これまで・・・本当に」
別れを前にした私から出た言葉は、謝罪ではなく感謝だった。
妻は一瞬目を丸くし、それからすぐ「こちらこそ、ありがとう」と満面の笑みで返してくれた。
思い出す時には、この顔の妻であるようにしっかり目に焼きつけておこう・・・薄れていく意識の中で私は妻に「また会いに行くよ」と言った
―――
気が付くと、空が見えた。
・・・覚めてしまったか。
ゆっくりと起き上がり、さっきまで見ていた夢を思い返す。とても不思議な夢、、、なのか?妻は私が会いにきた、と言った。
でも花は見つけていない。なら、やはりただ私が妻に会いたいという強い願いが見せた夢なのか。
日が暮れて来た。これは早く下山しないとまずい。
あれだけ花を見つけられなかった絶望感に打ちひしがれていたのに、今はなんだか心が軽い。
もう、花を求めてはいなかった。
大事なことを思い出したから。
荷物を持ち上げる立ち上がろうとした時、荷物の置いてあったところに小さな花が咲いているのが目に入った。
「これって・・・」
そうか、ただの夢ではなかった。私は目的を果たしていたのだな。
私は花にそっと触れ、そして帰路に着いた。
もう二度とこの山に来ることはないだろう。
帰ったら妻の墓参りをしよう。
あの花屋で花を買って――
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