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夢を見た、

それは懐かしさと、夢特有の非現実さが心地よく混ざり合った現実の夢。

自分が感じている時間軸はいま(現在)なのに、時代は・・・おそらく自分が戻りたい、と思っている時間。

現実では二度と会えなくなってしまった人、
もう関係性が壊れてしまっている人、
そういう人たちが自然と傍に居て溶け込んでいる。

頭の片隅で「夢」だという認識もあるのに、「”そこ”に居る筈がない」という覚めるような考えは不思議と一切思うことなく、受け入れている自分がいる。

それは、自分が望む形を維持しようとする深層心理が働いているんだと思う。

ただ、自分がいかに現実主義か、ということを思い知らされるのは、叶わぬ恋の相手はけして夢に現れることはなく、代わりに好きなアーティストや俳優がサラっと恋人、というポジションで登場すること。

何故、それが現実主義なのか?

手の届かない芸能人を夢に見る方が現実的ではないだろうと思うかもしれないが、現実的ではない片想いの相手と結ばれる夢を見たところで、目が覚めた時には結局、虚しさが残るだけ。
それならば最初からありえない相手を代役として出演させる方がよっぽど幸せなのだ、ということを潜在意識で理解している自分が、自分を守る為に無意識に操作しているのだろうと考える。

大人が夢を見る、ということの現実がこういうことだ。



夢を見た。
違う、というのはその部屋には、実際ある筈もない大きな窓が四方にあり、そこから見える景色は、ただの田舎の見慣れた自然が、眩しいくらいに溢れていた。気温は暑くも寒くもなく、心地よい風が窓から吹き込んでいた。

実家の私の部屋だ。・・・いや、少し違う。

目の前に広がる光景とは少し浮いた、まるでCGで描かれた様な綺麗な鳥が、優雅に窓から窓へ流れ飛び去った。その様子を見ていた私は部屋の中へ視線を戻すと、そこには懐かしい顔が居て、こちらを見ている。

何か言っているのはわかるけれど、何と言っているかはわからない。けれど何故か私は嬉しい。

もっと近づいてよく聞こうとした瞬間、もう別の場所を歩いていた。
その突拍子もない変化にも違和感がないのは、その場所もあまりにも見知った所だからだろうか。
私はどこかへ向かっている。目的もわからないのに、向かわないといけないという意思だけで。そしてきっとその場所も、知っている。

でも、そこにはたどり着けないことも、わかっている。

案の定、途中で目が覚めた。
続きを見ようと、たとえ二度寝しても見ることができない。
夜にまた、新しい夢が始まるだけ。

それでも私はまた、夢を見る。


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