短編小説『はじめてアレをみた話』
まえがき
「はじめてアレをみた話」を読んでいただき、ありがとうございます。
この物語は、幼い頃から誰しもが持つ“未知なるもの”への好奇心と、それに伴う“恐れ”をテーマに描きました。
人は誰でも「見てはいけない」「近づいてはいけない」という言葉に引き寄せられるものです。それが何なのかを知りたいという欲望は、恐怖に勝る時があります。この物語の主人公たちもまた、そんな衝動に突き動かされ、「アレ」と対峙することになります。
私たちが日常で感じる何気ない違和感――そこに潜む“未知なるもの”が顔をのぞかせた時、人はどう感じ、どう行動するのか。本作では、そんな瞬間を切り取ろうと試みました。
読み終えた後、あなたの中にも「アレとは何だったのか」という問いが残るかもしれません。そしてそれは、この物語の核心でもあります。さぁ、一緒に“アレ”の世界へ足を踏み入れてみてください。
どうぞ、最後までお楽しみください。
幼い頃、母が言っていた。
「絶対にあの丘には近づいちゃダメよ。アレを見てしまったら、大変なことになるから」
私が「アレって何?」と聞くたび、母は「見た人しかわからないのよ」とだけ答えた。恐ろしいことなのか、それとも不思議なことなのか、子どもの私にはわからなかった。ただ、大人たちがその話題になると声を潜めて話すのが怖かった。
あの丘の名前は「カラス丘」と呼ばれていた。昼間でも木々が濃い影を落とし、たまに不気味な鳥の鳴き声が聞こえてくる。近所の誰もが知る禁足地だった。
中学生になった私は、友人の健太と放課後その丘に行くことになった。特に深い理由はない。どちらかと言えば、健太が無理に誘ってきた。
「お前、怖がってんの?そんなもん何もねぇよ!」
自転車に跨りながら強がる健太は、確かに頼りになる男に見えた。彼の口車に乗せられる形で、私たちは丘の入口まで来た。
丘に入った途端、空気が変わった。外の世界とは異なる静寂。風の音すら、ここでは重たく聞こえる。私たちは言葉を交わさずに進んだ。周囲を取り囲む木々のせいで、夕方なのに既に夜のようだった。
「ほら、何もねぇだろ!」健太が笑い声を上げた瞬間だった。
「……ねぇ、見て」
私が指さした先、木々の間に何かが見えた。
最初は、白い布のようなものかと思った。でも違う。それは確かに、人の形をしていた。けれど、その輪郭は揺らめき、顔もない。ただそこに「立っている」だけだ。
健太もそれに気づいたのか、「なんだよ、あれ」と小さく呟いた。そしてその瞬間、何かが変わった。
突然、私たちの周りに影が差し込む。目を凝らすと、無数の目がこちらを見ていた。鳥かと思ったが、違う。全て、人の形をしている。けれど、どれも顔がない。
「走れ!」健太が叫び、私たちは必死に駆け出した。
背後でざわざわとした音が響く。まるで何かが追いかけてくるようだった。足をもつれさせながら、丘を下り、振り返らずに自転車を漕いだ。家に着いた頃には、もうあたりは真っ暗だった。
その夜、健太は電話をかけてきた。
「なぁ、あれ……何だったんだろうな?」
「あれって……アレ?」
「あぁ。お前、ちゃんと見たか?」
私はあの影の形を思い出した。けれど、あの時の「アレ」の記憶は曖昧で、どんな顔をしていたのか、そもそも顔があったのかすら覚えていない。奇妙なことに、健太も同じようなことを言った。
「あんなにはっきり見えてたのに、どんな形だったか覚えてねぇ……」
次の日、学校に行くと健太は欠席していた。家に電話をしても、「健太は今、少し体調を崩している」としか教えてくれなかった。私はそれ以上聞けなかったが、ふと気づいたことがあった。
健太の名前が、頭の中でぼやけていくのだ。
翌日、翌々日、健太の記憶はどんどん薄れていった。そして、クラスメイトたちの間でも健太の話題は消えていった。まるで最初から存在していなかったように。
数年後、私は地元を離れ、遠くの大学に進学した。健太のことを思い出すことはほとんどなくなったが、時々、不意に思い出す。
「あの丘で見たアレ」と「健太」は、私の記憶の中で奇妙に絡み合っている。けれど、あの日を境に誰にも話していないし、話そうとも思わない。
ただひとつ言えることは――
「アレを見た人だけが、アレを知る」
そして、それは恐らく一生消えない記憶なのだろう。
−完−