練習は不可能を可能にす
練習は不可能を可能にす
体育館入口にあった言葉。
けっこう身に染み付いている。
練習やだなあと思いながらも励んだ。
今は、
練習は不可能を可能にす「る場合もある」
と書き足したい。
加えて「どんな練習をするかによる」も。
専門家になれなかった理由を今、日々確認しつつある。
何かを達成するのに300時間必要だとしたら、私は寝ないででも短期間で達成させたくて、1ヶ月で成し遂げようとする。1日10時間集中することも厭わない。高速で突っ走るブルドーザー。
専門家になる人は、1日10時間はやらない。1ヶ月で成し遂げようともしない。1日3時間100日かけた結果に納得しない。予定の300時間経ってもその後も延々と為し続ける。長い目で考える。同じことを繰り返し、同じことを再生する技術を身につける。実に安定感がある。同じ道を散歩しても飽きない。日々違いを見つけ、心の風景をメンテナンスし続ける。
高速ブルドーザーは次の未知の目的地へ向かい急ぐ。それを繰り返し、数多くの達成感を覚える。
「長時間 集中」と「長期間 継続」の差は歴然。
1ヶ月経ち私が完成させても、専門家はまだ悠長に歩んでいる。完成度は私が高く見えるが、緻密さが違う。
快楽の向きが違う。心身振り絞って疾走し達成感を得る快楽と、日々同じことの繰り返しから改善を重ね理想に近づいていく快楽の違い。
練習は不可能を可能にす
この言葉は、身体に染み込んでいて、人生の様々な局面で練習だったり、トレーニングが必要と思う場面では、練習を重ねて行けばいつかはできるようになるのだと信じこめた。
最初は誰もできない。誰もが素人。そう励まして色々チャレンジしてきた。やってみたら意外とできた。マイナスから始まるから合格点も低い。それでも私にはチャレンジで、何度か同じことを繰り返して反省して学習すれば多少は前進するんだなと、「私にはできない、無理」と思う壁が減った。やらずにしり込みするより失敗してもともとだと思えば気が楽。
小さなことから自信つけてのスモールステップだ。
そうやって何事も練習してトレーニング重ねて、不可能だったことを一つ一つクリアしてきたつもり。できなくても失敗しても、練習だから失敗は大切な学習。次に繋げればよし。
でも、最初から、「すごく、簡単に」出来るだろう、とゴールのイメージをもって楽観から始めると、私はたいてい挫ける。今取り組んでいる試験がそう。今年も恐らく落ちる。この程度の学習で受かるわけがない。私は、学習に対して「やれば出来る」はずだと侮りがある。これも身に染み付いたもので、今までなんとかつじつまが合い、なんとか来てしまった。
練習を「やれば」ではなく「どうやるか」だと、今更ながらに間違いに気づいた。気づいたけど今年はもう遅い。
集中して全身全霊を捧げる学習方法から、地道にルーティンとして、同じことを日々繰り返し重ねていく練習、まさにトレーニング。
同じことの繰り返しが苦手。同じことを繰り返してその道に精通するのではなく、常に変化、工夫していないとならない。どんどんアレンジしていき同じところにいられない。同じものを毎日ぶれないように作る料理人や同じ曲を繰り返す歌手やピアニストを私は尊敬する。何度も繰り返すからプロになれるのだ。
自分が専門職になれず、器用貧乏の、そつなくこなす(そう言われてきた)何でも屋さんから脱したくて、専門家を目指すのだから、うんざりするほど、うんざりしても、飽きても飽きても、執拗に繰り返す練習は避けて通れない。ひたすら基礎を繰り返す。それが私のトレーニングメニューなのだ。
これは人生の歩みかたそのもので、今再びあなたは何者か?と問われてもいる。視界が広く開け拡散していく思考と一つしかない身体とのバランスのとれなさへの焦燥の中、それでも未知の道へ進みたい気持ちは止められない。
次の未知の道はブルドーザーでは疾走できない。ゆっくり歩く、同じ道を回る、同じことを繰り返す、同じ道なのに初めての道、それを繰り返す、繰り返す、同じなのに初めての道、同じのようで。