令和に「娘役」たる女性たちについて考える
先日、花組トップ娘役の華優希が退団発表をした。私は勝手に柚香光と2人での長期政権なのではと踏んでいたので、まさに寝耳に水であった。同時に、心臓を抉り取られたかような深いショックを受けていた。
正直な話をすると、私は華のことがすごく好きな訳ではない。メイク後のビジュアルが私の好きな漫画『ジョジョの奇妙な冒険』シリーズの作画に少し似ているような気がして、そこはとても好きだが、それ以上深堀りすることはなかった。それでも私が退団発表にショックを受けたというのは、今月初めに観た『はいからさんが通る』に原因がある。
正直な話第2弾だが、私は少女漫画があまり好きではない。宝塚ファンの端くれとして義務感で読み始めた『ベルサイユのばら』を、「ルフィだったらぶん殴って終わらせるのに」と思って放ってしまうぐらいには少女漫画に向いていない。『はいからさんが通る』はノー勉の状態で観劇に行ったが、開始からしばらくの間、本来なら原作ファンが喜ぶべきポイントである少女漫画的表現が私には苦痛だった。しかし、その感覚が一変するポイントがあった。それは華演じる紅緒が酒に酔って街中で喧嘩をするシーン。喧嘩が始まってすぐは、いくら強いとはいえお嬢様育ちの女の子がゴロツキの男たちをボコボコにするなんて、リアリティの無い少女漫画的なシーンだと冷めた目で見ていた。ところが、紅緒の拳を見た瞬間、私は一気に惹き込まれた。その拳は"女の子"の演技ではない、強さを持った拳だった。「勝てる。」そう確信した私は、『はいからさんが通る』をただの少女漫画と侮っていた姿勢を改めることを決めた。
その後終幕まで観たわけだが、私の苦手な少女漫画的作品であることから脱することはなかった。そもそもそれが売りなのだ。私が特異体質なだけで、何の問題も無い。しかし、そんな中でも私を虜にしたキャラクターがいた。それは音くり寿演じる北小路環だ。平塚らいてうの一節を引用して教師を論破する姿、良いお家柄に頼らずバリキャリとして働く姿、恋愛の相手も自ら選び取る姿・・・。音自身の高い実力も相まって、全てがかっこよかった。北小路環に心撃たれすぎて、フィナーレのモダンガールのシーンでは何故か涙が出そうになった。実は私はそれまで音のことも、実力派とは思いながらも注目していた訳ではなかった。ライトすぎて視野が広げられないのである。が、私は今回の観劇を経てこれまでのその視野の狭さを非常に後悔した。本当に素敵な女性だった。
ここまで読んでも、何故私がそこまで華の退団発表にショックを受けたかは伝わらないと思う。華については拳の強さの話しかしていないし、音の方に熱量を注いでしまっている。しかし、私の深い悲しみにはこの2つの要素、延いては華優希as花村紅緒と音くり寿as北小路環というキャストと役柄との境界を超えた二者の関係性が大いに関わってくるのだ。
まず花村紅緒について。紅緒は酒豪であり喧嘩が強く、いわゆる"女らしさ"に欠けた女性だ。それでありながら環と比べると精神的な未熟さも感じられる。少女漫画的な展開の中でもその未熟さに共感をおぼえることが度々あった。そして劇中において紅緒はどちらかと言うと"愛される"存在である。忍にしろ冬星にしろ蘭丸にしろ、"女らしく"ない紅緒に惹かれて恋をするのだ。
一方の環はルックスなど先天的な要素は"女らしい"が、精神的な強さには従来の"女らしさ"に当てはまらないものがある。(最も、これを"女らしく"ないと捉えてしまえる自分にも少し失望するが・・・。)そして、少女漫画的に無条件に愛される紅緒とは対照的に、環は自ら"愛する"存在として描かれている。心を寄せていた忍は紅緒の婚約者となったり、「親友」と呼ぶ紅緒の危機を救うため奮闘したり、愛する鬼島を追って満州へ行くことを決意したりと、恋人・友人を問わず"愛する"ことについて積極的だ。
私は『はいからさんが通る』を観劇しながら、知らず知らずのうちにこの2人の双方に自分を重ね合わせていた。男性的なお笑いのノリが好きで幼少期から女子扱いされてこなかった私。一人暮らしの部屋も汚く自炊も全くしない私。可愛いものや美しいものが好きで「ダサピンク」も好んでしまう私。承認欲求が強く愛されたくてたまらない私。「結婚できないよ」等と言われるとその度にカチンと来て反論したくなる私。そんな私を構成する一つ一つのピースが紅緒と環に当てはまっていったのだ。物語が2人の幸せな未来を匂わせて終わったとき、私は自分にもそんな未来が来るのではないかと思い嬉しくなった。
そして、その2役を演じる華と音のそれぞれの境遇もこの2役の背景に大きく寄与していた。偉大な娘役であった仙名彩世の後任、そしてこれまた偉大なトップスター・明日海りおの最後の相手役としてトップ娘役に就任し、実力不足などと批判も受けている華。高い実力と人気がありながら今のところトップ娘役にはなっていない音。宝塚的な思想基盤に則ると、2人とも完全なる幸せな道は歩んでいないかもしれない。しかし、『はいからさんが通る』を観た後、私は「これでいいじゃないか!」と思わざるを得なかった。完璧な娘役には紅緒は演じられないし、相手役がいるトップ娘役が演じる環なんて説得力が無い。しっかりと未熟さを表現できる華の演技力、完全武装とも言うべき音の高い実力。少なくともこの大劇場版の『はいからさんが通る』の成功には、この2つの要素が必要不可欠だったと私は感じた。それぞれ、2020年の華優希と2020年の音くり寿が演じたからこそ、私はあそこまで感情移入し、元気づけられたのだ。
そんな中、華優希が退団を発表した。トップ娘役になってからわずか3作目での退団、もっと早い人もいただろうが、早い方には違いない。批判が原因じゃないかという声もある。本当の退団理由なんて本人にしか分からない。しかし、もし行き過ぎた批判が原因なのだとしたらそれはあまりにも悲しいことだし、私は文字通り半身を削がれたような気持ちにならざるを得ない。批判が全て悪いこととは思わないし、私自身華の全てを無条件に肯定する気は無い。だが、批判の中に散見される"娘役らしくない"という旨の言葉たちは、この先もアップデートされることはないのだろうかと考えてしまう。もちろん私も"娘役らしい"娘役は好きだし、近年批判されているクラシカルなディズニープリンセスもそれなりに肯定できるタイプだ。でも、せっかく元号も変わったのだ。選択肢が増えたって良いのではないだろうか。娘役だって一女優として劇団に所属しているのである。男役をよく見せることだけを美徳とするのはもうやめてもいいのではないだろうか。華優希as花村紅緒と音くり寿as北小路環はそれぞれのやり方で"娘役らしさ"、そして"女らしさ"からの逸脱を見せてくれた。華への批判の際、音を引き合いに出す人も偶に見られるが、それは対照的な存在である音の首をも締めているのではなかろうか。私は「華優希退団発表」という文字列を見て、"女らしく"なくても愛される、先天的に"女らしく"ても"女らしく"振る舞わなくていい、その双方が実現された理想郷それ自体が否定されたような気がしてしまった。結局のところ真相は分からないのだから、これは私の思い込みでしかないし、私は自分の思い込み故に深い傷を負っている。その上、華優希と花村紅緒、音くり寿と北小路環がイコールでないことなんて十分理解している。しかし、宝塚ファンとしてTwitterをやっている方なら、そう思わせる条件が揃っていたことも納得してくれるのではないだろうか。きっと私はこれからも、華の演じた紅緒の幻想を追いながらゾンビのようになった半身を引きずって生きていくのだろう。就活を前にした大学3年の冬、環のように強く在りたいと思いながらも、紅緒のガサツさや未熟さが恋しくなってしまうのだろう。
時は令和。「はいからさん」であることはまだまだ難しいかもしれないと、花村紅緒と北小路環に伝えたい。