宝塚版『アナスタシア』の「外部感」について
宙組の東京宝塚劇場公演『アナスタシア』を2回観た。観る前はエリザ等の他の海外ミュージカル一本物同様に「宝塚ナイズ」されたものだろうと思っていたが、公演終了後には「とんでもない公演を目の当たりにしてしまった」という思いを抱かざるを得なかった。宙組の『アナスタシア』はもはや宝塚ではない、外部公演そのものであった。宝塚歌劇である以上、宝塚らしくないというのは必ずしも褒め言葉になり得ないと思うが、この溢れ出す「外部感」は彼女たちの努力が成し得た輝かしい功績であると思う。今回は、私がこの「外部感」創出の立役者であると考えるキャストを4人ほどあげていきたい。
まず1人目はヴラド・ポポフを演じた桜木みなと。真風涼帆演じるディミトリと共に行動し、自身にもラブシーンがあるなど、とても美味しい役どころであった。本公演における彼女の評価すべきポイントは「スターとしての自我を消し去った」ことにあると考える。ヴラドは本作における三枚目であるが、いつの時代も2番手・3番手の男役スターには三枚目の役柄が回ってくるものである。(つい最近まで三枚目役が代表作となった偉大なるトップスターもいたが…。)そしてファンは自身の贔屓が面白おかしく演技をする様子を見ながら普段の二枚目然とした姿との「ギャップ」を楽しんでいる傾向にあると私は考える。二枚目と三枚目との「ギャップ」が三枚目の演技に表れている場合、そこには二枚目としての自我が存在する。宝塚の男役は自身の二枚目的魅力を観客に振り撒くことが仕事であり、またそれが出世への近道であることを考えると当然のことである。三枚目役をやりながらもスターの面影を残し続けることは一種のファンサービスであり、宝塚の男役としては正解なのだ。ただそれはスター制を敷く宝塚歌劇団独自の文化であり、これこそが輸入ミュージカルにおける「宝塚ナイズ」の要因の一つであると考える。その点、今回の桜木はどうであったか。ヴラドというおちゃらけた没落貴族(そもそも貴族であったのかも怪しい)の中年男性を演じている彼女の姿に、もはや「スター・桜木みなと」の自我は存在していなかったように私は感じた。「かっこよく見せよう」という意図が微塵も感じられないのである。リリーと甘いデュエットを歌うシーンでさえも、桜木みなととしてではなくヴラドとして色気を出しているようにはっきりと見えた。研12の3番手男役。この大事な時期に、演技力に定評のある桜木があそこまでスターとしての自我を滅してヴラドを演じたということは、宙組の『アナスタシア』の成功における大きな要因と言っても過言ではないだろう。
2人目はリリーを演じた和希そら。彼女の評価すべきポイントは桜木同様、スターとしての自我を消し去ったことにあるが、ここには「男役の女装」という根深い問題が絡んでくる。先程スターが三枚目を演じる際の自我について述べたが、男役が女性の役を演じる際にも似たような事象が起こっている。男役が女性の役を演じる、あるいは女性の衣装を着るとき、ファンはその様子を「女装」と呼び、三枚目役同様に普段の姿とのギャップを楽しむ。ひと目で分かりやすい点、三枚目よりもその傾向が強いように思える。前段では触れなかったが、この「ギャップを楽しむ」という姿勢には大きな落とし穴があると考える。それはギャップそれ自体のインパクトに目が眩み、パフォーマンス自体のクオリティが見えにくくなることだ。もちろん全てではないが、男役の演じる女役においては、女性としての姿のに物珍しさに隠れて声や所作の作り込みの甘さが見逃されていたことが多いように感じる。そのキャスティングにより娘役による女性の役の枠が減っている以上、本来はこのようなことは許されるべきではないが、ファンの中でも割と一般的な感覚になっているのではないだろうか。さて、和希はどうであったか。彼女のリリーはまさに完璧とも言える出来だった。男役が演じる女性役ではなく、リリーとしてリリーを演じていた。男役でも娘役でも「女役」でもない、リリーを演じるための声。マリア皇太后の侍女であり踊りの大好きなヴラドの元恋人としての所作。外部公演に出演していても全く遜色が無いどころか、外部のあの公演のあの役を和希で観たいという想像が次々と掻き立てられた。宝塚ファンとしてこの言葉を使ってしまうのは宜しくないのであろうが、「宝塚には勿体ない」逸材である。これは宝塚そのものを否定している訳ではない。ただ、和希の実力がスターシステムという枠組みを逸脱しているのを私は感じてしまったのだ。
3人目はアレクセイを演じた遥羽らら。宝塚ファンにはお馴染みの海外ミュージカルあるあるであるが、輸入作品は往々にしてメインキャストと言える役の数が少ない。その上、今回は女性の役であるマリアとリリーを男役である寿つかさと和希そらが演じていることもあり、娘役でメインとなるキャストは実質アーニャしか居ないとも捉えられるのではないだろうか。今回、「その煽りを食った」というと言い方が悪いが、別箱公演ではヒロインを張っている遥羽もアレクセイという少年役とその他アンサンブルキャストに徹している。だが、このアレクセイを遥羽が演じたということはこの作品のクオリティの向上に一役買っていると思うのだ。10代後半以上の年齢の女性のみが在籍する宝塚歌劇団において、少年役は基本娘役によって演じられ、中でも下級生の娘役によって演じられる場合が大半である。ある程度学年を重ねた娘役によって演じられる際は例外であるが、その演技は娘役の高い声で子供のように元気良く台詞を言うに留まっていることが多い。そんな中、今回研9のヒロイン経験者として少年役に挑戦した遥羽は、たった数秒の台詞においてその実力を遺憾無く見せ付けるという偉業を成し遂げた。それは「悪夢」の場面である。ロマノフ王家の亡霊が踊る中、遥羽演じるアレクセイがアーニャに問いかける。その声がまさに少年そのものなのだ。少年役の属性としてありがちな「元気さ」もなく、静かに語りかけるたった二言。かつて弟であった亡霊が自らが何者かについて問いかけてくるという、少年の純粋さと少しの不気味さの共存とがこの悪夢を悪夢たらしめるのだ。そのためには、観客にアレクセイが少年であることを信じて疑わせない必要がある。遥羽はそのたった二言によりその仕事を見事にやってのけた。今回はメインキャストの数の制約があったものの、前回の大劇場公演である『El Japón』でも彼女の実力は持て余されていた記憶がある。別箱公演だけでなく、大劇場公演でも彼女が実力で観客を殴っていく様子を観たいものである。
最後は何と言ってもアーニャ役の星風まどかである。私は今回、彼女の圧倒的な「ヒロイン力」に注目したい。本作において、彼女はあまりにもアーニャであった。歌唱力や演技力など、実力はもちろん申し分ない。特に歌唱においては、地声とファルセットとを使い分けることによる、娘役的な歌唱と主人公として聴かせる部分とのコントラストが本当に素晴らしかった。その上、早くからトップ娘役に抜擢されているだけあり、ルックスもピカイチである。また、トップ娘役就任当初は課題とされていたルックスの幼さも、『オーシャンズ11』のテス役などを経て大人の女性らしい演技や芯の強さでカバーできるようになった。まさにトップ娘役として円熟期を迎えている。しかし、私は星風の「ヒロイン力」はこれだけでは語れないように思う。性別を問わず、主人公に必要とされるものとはなんだろう。全てに通じるわけではないが、「"I Want"ソング」が歌われるミュージカル作品においては、主人公がその目的を達成しようとして成長を遂げることでストーリーが進行するのがメジャーだ。つまりこの手の作品において主人公に求められるのは成長性である。見ていて応援したくなる感覚、これこそが観客の共感を呼ぶ。私は、元来星風の課題とされていた幼さが、良い意味で不完全さを生み出し、成長性をもたらしていると感じる。実力もスター性も兼ね備えているのに、まだ伸びると感じさせられる。それは決して弱さではなく、むしろ強さがあるからこそ秘めた可能性が表出する。これは天性の「ヒロイン力」と言えるのではなかろうか。悲しいことに、まかまどコンビはこの作品を最後に解散し、星風は専科へ異動となる。その後星風がどのような行く末を辿るのかについては様々な憶測がなされているが、私はもし機会があるなら外部公演に特別出演をしてほしいと強く思う。彼女の実力、そして「ヒロイン力」は外の世界でも十分に通用する、新時代のプリンセスになり得る逸材である。
今回は「外部感」に着目して記事を書いたが、もちろんこの作品には宝塚でやるからこその良さも含まれている。しかし、宝塚で上演された海外ミュージカルの歴史の中でも、宝塚ならではの世界観以外にこんなにも価値を置くことができた作品はなかなか無いのではなかろうか。以前から宙組の総合力の高さはあまり目が向けられてないように感じていたが、今回の『アナスタシア』において各々がそれを爆発させたように思える。一ファンとして、まかまどコンビの集大成となったこの作品がこれほどまでのクオリティを叩き出せたことを心から嬉しく思う。宙組の未来に、そして星風まどかの未来に幸多からんことを。