「アメリカングラフィティ」に賭けた1977年、若気の至り(わかげのいたり)
2021年、ジョージ・ルーカスはもう引退してしまったのかな?
1977年頃大学の映画クラブのメンバーで映画上映会をやっていた。
学内の施設で古典的な作品を上映するよくあるパターンだ。
そこから脱皮して、もっと自分たちに近い映画を上映しようということになった。
「アメリカングラフィティ」(1973年:ジョージ・ルーカス)を上映することにした。
しかし、テレビ放映もされていない作品なので、
それまでの古典と違って、フィルム代が20倍くらい高い。
そこで以下のようにすることにした。
①友人・知人に出資を募る。
②1週間以上の興行にする。
③市内の映画館を借りる
映画館を借りることで経費は大幅に膨らんだが、どうせやるなら中途半端はダメだろうと思った。上映活動を専門にやっている人のアドバイス(「俺ならやらんけど」)も受けて、やろうと決めた。実質的に博打だった。完全に学業を忘れて(元々忘れてる)これに取り掛かった。条件をすべてクリアし、いよいよ上映の日が迫った。前売りはそこそこ売れたが、経費は全然カバーできていない。損失が出たらバイトで返すしかないと思った。
しかしだ、これがとんでもないヒットになったのだ。
タイミングが良かった。オールディーズがリバイバルし、ルーカスの新作「スターウォーズ」が超話題になっていたが、日本公開が米国より1年遅れという事情も後押しした。初日は行列ができた。
館主が急に優しくなったと思ったら、歩合にしようと持ち掛けてきた。
計算してみたら予想をはるかに上回る利益になる。完全に舞い上がってしまっていた我々は、それをOKしてしまった。こういうとこが甘い。
この1週間は至福の時だった。好きな映画を何回でも観られるのだ。
自分たちの企画なので、自分の映画館の気分だった。
観に来た人たちから「とてもよかった。ありがとう」と言われるのも新鮮だった。
さて、私たちの手元には全てを清算しても150万を超すようなお金が入った。オールナイトのバイトが時給350円の時代だ。
芸者でも呼ぶか、などという昭和な提案もあったが、
結局、映画をつくろうということになった。
その顛末は、明日のこころだ。
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