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勝手に逝きやがれ2。活劇に命をかけたジャン・ポール・ベルモンド 追悼

近年で、一番うれしかった出来事が、2020年秋にはじまった「ジャン・ポール・ベルモンド傑作選」だった。
むかし、ベルモンドの主演作(テレビ含む)をたくさん見ていた。
しかし、いつの間にか劇場公開はもとより、テレビ放映もDVD化もあまりされなくなり、それが大いに不満だった。
ベルモンドのライバルと言われた、アラン・ドロンの作品は大半がDVDになっているのに、この扱いの差はあんまりではないですか?

などと永年思っていたところに、映画評論家江戸木純さんが傑作選を企画してくれた。ラジオ・YouTubeでのお話によると、長年、諦めずにやって来た執念の成果だそうで、本当に頭が下がります。感謝感激です。

活劇映画におけるJ・P・ベルモンド

さて、前回はヌーヴェル・ヴァーグ時代のベルモンドを回想したけど、今回は活劇映画におけるベルモンドだ。

「傑作選」の企画として、ベルモンド映画総選挙が実施された。
その結果を見ると、1位から5位までが「リオの男」をはじめとする活劇が独占している。6位にようやく「勝手にしやがれ」が登場している。
やはり多くのファンにとって、ベルモンドといえば活劇、アクション映画なのだ。

とは言うものの、活劇映画におけるベルモンドの魅力を書くのは簡単ではない。が、あえて、その魅力を書くとしたら、
「肉体を駆使した本気のアクション、これぞ映画の本質」というところか。

ベルモンドの活劇映画の多くはコミック的、パロディ的、そしてファンタスティックな要素が濃い。
それは、彼を活劇の世界に引き込んだ名監督、フィリップ・ド・ブロカの持ち味なのだが、そこにベルモンドはトリックなしの過激なスタントを持ち込んだ。それによって、これらの映画は、アクション映画の名作として、末永く愛されるようになったのだ。

演技でも演出でもない、本物のスリル

高層ビルをよじ登ったり、走る車から車へ飛び移ったり、クレーンに高く吊り上げられたり、崖から落ちたり、そして、おなじみのヘリに吊り下げられて空を飛んだり‥。普通はスタントマンか合成だが、ベルモンドは違う。
演技ではなく本当に危ないことをしている。

高層ビルの窓にぶら下がる場面は他の映画でもよくある。
主人公が下を見る、ビルの下を車が走っている、主人公の手が滑りそうになる。これらのカットは別々に撮影され、編集されるのが普通だ。
それでも私たちは十分にスリルを味わうことができる。
たとえば、ヒッチコックの「逃走迷路」とか。

ベルモンドの映画なら、こんな場面はワンカットで見せてしまう。
本当にぶら下がっているから、逆にカットを割りたくないところだ。
しかし、こんなサーカスみたいな見世物感覚は、映画表現的には時代遅れじゃないですかね。そもそも危ないじゃないですか。
にもかかわらず、ベルモンドもフィリップ・ド・ブロカも、そこにこだわった。

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編集による、落ちそうな男の名場面:ヒッチコック「逃走迷路」

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ベルモンドによる落ちそうな男。本当に落ちかけている

肉体という真実、つまり本気のおもしろさ

ブロカ監督はゴダールとは同世代の監督だ。
ヌーヴェル・ヴァーグと関係なさそうに見えるが、実際は初期のゴダールやトリュフの作品に関わっている。
もともと映画マニアで、昔の活劇の魅力を60年代に復活させようという意欲があり、そのあたりのセンスもヌーヴェル・ヴァーグ的だ。
ゴダールがベルモンドのキャラを活かして映画表現を革新したように、ブロカはベルモンドの身体能力を使って映画のアクションを革新(または復刻)した、と言えるのではないだろうか。

どんなにすぐれた監督でも、俳優の肉体がなければ劇映画の表現はできない。
すぐれた俳優というとリアルに演技できる人たちを思い浮かべるが、そういう名優的な人はあんまり珍しくない。
むしろ、命がけのアクションに対応できる俳優の方が限られている。
映画は、つくりものをいかにも本物らしく見せるエンタメとして技術発展してきたから、それはそうだろう。
だから、命を張る必要などないのだが、映画の原初的な面白さって、バスター・キートンみたいな、アクロバットな動きの面白さだったんじゃないの?

ベルモンドは肉体という真実でもって、そういう誰が見ても面白いと言えるアクションを追求し続けたのだと思う。

ということで、ベルモンドの話は尽きません。
今は、かなりの作品を見ることができるので、ぜひ、見てもらいたいと思います。


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