人の縁が切り拓いた2006年の新たなる賭け:昨日の続き
1977年、映画上映で稼いだお金で映画製作を実行したが、失敗だった。
その後、映画をつくることはあきらめて大学を卒業し就職した。
自作映画を見てもらった広告(CM)制作会社の親会社である印刷会社だ。コネではない。
最終面接に創業者の息子である営業部長がいた。まだ30代だと思うが、目つきが鋭くて(細い?)一番油断ならない人物に見えた。
その方の映画に関する質問をきっかけに映画談議になった。
この方も映画好きだったのだ。
どうやらそれで採用となったらしい。
就職難の中、無事入社したが泣かず飛ばずの新人時代だった。
しかし、映画談議で採用してくれた営業部長が後に2代目社長になられた。
そこから自分の運が大きく変わった。私は企画制作部門に異動となり、前述の広告制作会社のオフィスで仕事することになった。
その後いろいろあって、入社して25年くらい経ったとき、会社を設立することになった。同僚だった営業と2人で事業計画書を作成して、分社独立したい、社長に掛け合った。あっさり承諾された。
詳細は省くが、私たちが事業戦略として描いたのは、撮影・画像のマーケットだった。2006年だったので、ネットでの買い物が伸び始めていた。写真と動画がたくさん必要になると考えて、大型の撮影スタジオを建設することにした。いきなり数億円の投資になる。みんなが反対した。リスクあり過ぎ。
この時は志があってお金がないパターンだ。社長だけが賛成してくれた。
資金は貸してくれなかったが、連帯保証をしてもらった。
スタジオの設計は、大学時代に私の映画を観てくれたCMディレクターが、建築のデザインをする事業を始めていて、業界では有名になっていたので、そこに依頼した。全部で11個のスタジオを要する関西では最大級のスタジオだ。
メインスタジオは広さ90坪で防音を施して、映画製作ができる構造にした。
完成して、多くの方にお披露目した。その中にかつて映画の自主製作の目標にさせてもらっていた石井聰亙(岳龍)さんにも来ていただいた。石井さんからは動画のスタッフを紹介してもらい、当社の動画事業起ち上げのご支援もいただいた。
時を超えて、人の縁の不思議を見た。
私は今、匿名でnoteを書いている。病気のことをあまり知られたくなかったからだ。
この1か月半ほど、入院しながら毎日アップしてみて、いろいろなことが分かってきた。
7月には仕事に復帰する予定なので、それを機に仕事と会社についての発信をしようと計画している。その時は別枠にて本名で発信する。
何ができるのか?新たな挑戦だ。