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「よくそんなことができるな、よっぽど自信があるのかな」

 ファンアートなど、有名人をモチーフにした作品を作る人がいる。
 そしてその作品をネット上など誰でも見られる場所で発表する人がいる。 
 これはよくある風景というか、Twitterや Instagramをやっていると頻繁に目にするので、もはやひとつの文化といえるし、(有名人本人を侮辱するようなものでなければ)どのような作品を作って発表するかは自由であると思う。

 加えて、そう多くはないかもしれないが、有名人をモチーフにした作品を何らかの形で有名人本人に直接見せる人がいる、らしい。
 私は初めてそのことを知った時、正直、「よくそんなことができるな、よっぽど自信があるのかな」と思ってしまった。

 有名人に直接作品を見せるな、という主張がしたいわけではない。

 これは、なぜ私が「よくそんなことができるな、よっぽど自信があるのかな」などと思ってしまったのか、ということについて考えを巡らせた記録である。


 私は、思春期のある時期から大人になった現在に至るまで、人と関わる上で自分を表現するのがすっかり苦手になってしまった。
 きっかけは、高校に入学したての頃、クラスや部活での人間関係につまずいたことである。
 つまずいたというか、自分が興味関心のあることを話しても一向に理解が得られず、向こうの方から敬遠されたといった感じである。

 それからというもの、「私が発するすべてのものには価値がない」「人にはなるべく自分のことを隠すようにしよう」と常に思うようになり、石のようにじっと押し黙る日々を過ごしてきた。
 だから、何かを思いついても、そのアイデアを具現化させることは一切してこなかった。
 音楽、小説、お笑いのネタ、発明、政策……
 浮かんでは消え、浮かんでは消え、の繰り返し。
 何も残らないまま、時間だけが過ぎていった。

 社会人になると、会社と家との往復で疲弊し、休日も平日の疲れを癒すためだけに使うようになった。
 そうなると、もうアイデアを思いつくということすらもなくなってしまう。
 そもそも私が発するすべてのものには価値がないのだから、あれこれ考えるのは時間の無駄、そんなことする暇があるなら寝ていたい。

 朝起きて、ささやかなプロテストソングを聴きながら満員電車に揺られ、会社に着けば機械のように自らの感情を殺しつつ顧客の感情に振り回されながら働き、仕事が終わればまた満員電車に揺られ、家に帰って生命維持のための食事をし、シャワーを浴びて、明日の起床までの時間を逆算しながら寝る……
 これが社会人としての真っ当な姿だ、みんなそうやってる、定年まで食らいついていれば退職金がもらえるんだし、もっと大変な人がいるのだから頑張らないと……

 そういう生活を3年ほど続けたある日、とうとう会社に行くことができなくなってしまった。
 心療内科に行ったら、「適応障害」と診断された。

 自らを表現することもできず、滅私奉公することもできない。
 もう、すべてを投げ出したくなった。
 が、それもできないまま、布団の中でうずくまる日々を送っている。



 話を元に戻す。
 結局何が言いたいかというと、「よくそんなことができるな、よっぽど自信があるのかな」というのは、要するに、ただの嫉妬である。

 自らのアイデアを具現化できる能力があること。
 その能力を受け入れてもらえる環境があること。
 あるいは、受け入れてもらえなくてもチャレンジし続けられる芯の強さがあること。
 すべて、私にはないものである。
 すべて、あった方がいいものである。

 だから、それらがある人は、どんどん発信して才能を発揮させるべきである。
 また、それらがない人も、頭の片隅に何らかのアイデアがあるなら、具現化できるよう試行錯誤してみた方がよいと思う。
 誰かに何か言われても、委縮する必要は全くない。「よくそんなことができるな、よっぽど自信があるのかな」とかなんとか言われても。

 というわけで、私はこうして初めてnoteを書いてみたのである。
 ただ嫉妬してるだけじゃしょうがないもんね。

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