第4段 後の世の事、心にわすれず。
徒然なるままに、日暮らし、齧られたリンゴに向かいて云々。
今朝、駐車場でセミの死骸を見た。もう半分と残っていない、しかしながら其れとはなしに、アブラゼミだったのだろうなということだけはわかる。また、別の虫の死骸も見た。おそらく、クマバチか何かであろうなと思われる。こちらも体の半分のみが残っている状態でアスファルトにすり潰された状態となっていた。虫の最期は実に壮絶である。『飛んで火に入る夏の虫』ともいうように、虫という生き物は常に何かに突進していき、見るも無残な姿となって死んでいくイメージがある。人間もその一助を担っているわけではあるが、それもまた、世の不条理なのか無情なのかというところである。今日は、心なしか、死に関する話をいくつか聞いた。中でも自殺の話が特に記憶に残った。ふむ。自殺。こういうと驚くかもしれないが、こう見えてかくいうわたしもそれなりに自殺しようかと思い悩んでいた時期がある。実際に、どのようにすればいいのか検索したり、包丁の数を数えたり、それとなく最初から最後までイメージを済ませ、いざというところまで行った事もある。そのような過去の中でも、特に印象深かった話をしよう。そう、簡単に言えばわたしは『死神』に出会ったのである。ミュージカル好きの方は、『エリザベート』のトートを想像するかもしれないがそんな美しいものではない。もっとぼんやりとしていて、完全にイメージの世界でただ『気配』を感じるといった類のものであった。わたしがひどく落ち込み、何もする気がなくただうずくまっていた時。背後に何やら不穏な、そしてよくわからないが少し温かみのあるような妙な気配を感じた。わたしは瞬時にそれは、『死神』と呼ばれるものだと理解した。死神がついに、わたしの元にもやってきた。そのただならぬ気配と、吸い込まれそうな雰囲気に呑まれそうになり動けなくなってしまった。しかしながら、本能的にはここで彼についてったらきっと帰ってこれなくなる、ということは理解していたので必死に振り払った。わたしはまだ、この世でやることがある。まだお前の出番ではない。とっとと去れ!と言ったような感じだ、必死に何やらよくわからないエネルギーのようなものでその死神を追い払った。死神はその一瞬でいなくなり、部屋の雰囲気も元にもどった。世の中というのは怪奇に満ちている。もしあの時ついて行ってしまったら、おそらくわたしは今こうしてPC画面に向かっている事もないだろう。自殺ということを語るには難しい。それは自分自身が当事者ではないということ、デリケートな問題なのでそう簡単には言葉にはできないことなどがある。だがしかし、自死した友人を持つ身としてはっきり言えることは、おそらく、彼女たちも死神に会ったのではないだろうか。死神が彼女たちの前に現れ、そうしてそっと包み込むようにして連れ去っていったのではないだろうか。あの体温や雰囲気といった全ての感覚、それは、世間一般に言う死神のイメージとは違い非常に心地よいものだった。うっかりしていれば、瞬時に心を持っていかれる。簡単にそこに堕ちていってしまうのだ。だからこそ余計に思う、それはそれでもはや仕方のないことだったのかもしれないと。話は変わるが、孔子の死生観に関する言葉が非常に好きでいっときよく読んでいたことがある。『未だ生を知らず、焉んぞ死を知らんや。』つまりは、生きていることについてすらわからないのに、死についてなど分かるはずもないと言うこと。この言葉には真実をうたっている感覚もあれば、死について考え勝ちなわたしのような人間に対して揶揄しているようにも聞こえる。時にこの感覚が救いであったような時期もあり、結構この言葉は気に入っている。確かに、祖父の死を目の前で見たが、魂が抜けていき体が置物になった感覚はあったがそれ以外これといって何かを理解したわけではなかった。結局人間は、体験しないとわからない生き物だ。厄介なのは、『死』と言うものは、死者が体験したところでそれを生者へ伝えるすべがないと言うこと。当然と言えば当然なのだが、考えれば考えるほど実に不可思議なことのように思える。
人生は実に不可思議なことだらけだが、せめて死を迎える時分には『ああいい人生だった』と思えるような日々を送りたい。そこまで生き切ることが大事なのではないか、と思う今日この頃である。
コギト・エルゴ・スム
踊る哲学者モニカみなみ
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