本当の使命が知りたければ純粋な絶望をしろ。他人の十字架を背負っている時間は君にはない。

今日は親友のKと一緒にインドカレー屋にいった。業界では有名な老舗で、ここのカシミールカリーが食べてみたかったのだ。二人とも食欲旺盛な日で、セットに加えクルチャ(ナンに野菜やチーズなどが入っている食べ物)も食べた。Kとはもう10年以上の付き合いになる。こんなに長い友人はなかなかいない。彼女は高校時代の友人だが、在学中はそこまで仲良くはなかった。卒業して以来、なぜか急に意気投合し今に至るのだが本当に面白くて何時間一緒にいても飽きない。心も広く穏やかなので、いつも私の話をたくさん聞いては冷静な意見をくれる。中庸的な目線があることも、そして何よりも逞しいところに私は惚れている。いや、惚れ抜いていると言ってもいいくらいだ。男だったら猛烈に求婚しているだろうが、おそらく相手にされていない可能性もある。そうしてめげずにアタックし続けストーカーになり通報されているかもしれない。そんな傾国Kとカレーを食べた後は純喫茶に赴いた。御多分に洩れず私は愛煙家なので純喫茶巡りにはまっている。今日はほぼ新橋寄りの銀座にある『北欧』という店に馳せ参じた。ムーミンの本を持っていたのでさらにテンションが上がったことも付け加えておこう。私はコーヒーとアップルパイ、Kは珍しくレアチーズケーキとコーヒーを愉しみながらいろんな話をした。ふと彼女が真剣な面持ちになり、わたしにこう訪ねた。『ミーさんはさ、いつも、何とそんなに闘ってるわけ?』『ふうむ、そうだね。なんだろうね。言葉にするならば、生まれてきた事実ということかな。』と答えたのだが、なんだがずっとその回答にしっくりこないような気もしていた。高校の時、シスターHという方がいて、宗教学の時間をそのシスターが担当していた。彼女はある日、自分がシスターになったきっかけについてこう話した。『私は普通の主婦でした。夫と一人の息子(赤ん坊)がいて、毎日幸せに暮らしていました。それでも有る日の朝、目覚めると、私の隣で寝ているはずの夫と息子が消えていました。机の上には紙切れが何気なく置かれており、そこにはこう書かれていました。"君にはもう、ついていけない。悪いが恨まないでくれ。ありがとう。さようなら。"不思議な感覚でした。一人息子を奪われた、体の一部をもぎ取られたような悲しみ、そして夫に対しての怒りよりも失望や絶句に近いような感情もありましたが、それよりも1つの光が私を包み込み、こう心に思ったのです。"私には、神様しかいない。"そして私は修道会の門を潜り、神の道を歩み始めました。私のかつての家族がどうしているのかは今でもわかりません。それでも私には、これが神の望むことだと確信できたのです。』これを初めて聞いた時、雷に打たれたような衝撃があった。シスターになる人は、みんな元々信者か何かで、ミッション系の学校に通い、神様や神学が好きでシスターになるのだという先入観があった。しかしながら、自分に近しい一見穏やかそうなシスターがよもやこんなに生々しい過去を背負って神の道に入ったということが、とても新鮮だった。それと同時に、何か自分にも少しその感覚がわかるような気もした。最近、周りで鬱だったり『死にたい』ということを言われたり相談されたりする。みんな5月だからだろうか、死んだ魚の眼とはこのことかと言わんばかりの表情で、こちらもその空気に呑まれ半分沈没しかけていた。だが、ふと冷静になり私に求められているのはなんなのだろうかと考えた。たどり着いた答えは、やはりこのシスターHの話に学んだように『人間は良くも悪くも一人』だということ、そして立ち上がるのも歩みを止めるのも自分自身でしかないということを伝えることだと思った。キリスト教の教えの中に、『神はドアを閉めたら、窓をお開けになる』というものがある。つまりは、いまは悪いと思えるようなことでも、結果としては必要なことだったという教えである。シスターHの過去の話も、私の怪我をして病気が発覚した話も、これに当たる。何度でもいうが、人間の頭というのはひどく小さく、そして人間そのものは脆く崩れやすい。人間を強くするものがたったひとつあるとするならば、それは信じる力だと思う。根拠なく信じる力、その力だけが人間の根本を突き動かし、そしてそれは現実をも変える力を秘めている。シスターHは、自分自身の生活に満足していた。幸せに暮らしていた、穏やかな毎日があった。それでも突然その生活を取り上げられた。その時に、神や天を恨み生きていくこともできたはずだ。『私から全てを奪った夫を許さない。』と、断固闘うこともできたはずだ。しかし彼女はその道を選ばなかった。何よりも先に、その残酷かつ美しい沈黙の中で神の声を聞いたのだ。そして自分の使命を自覚し、神の道具となって生きることに情熱を燃やした。おそらくだが、シスターになってから彼女の本当の人生が始まったのだと思う。彼女は言うなれば一度死んで、また生まれ変わったのだ。それと同時に、こんなことも思う。『死にたい』と思うのは、本当の沈黙が近づいてきているチャンスなのだということ。この沈黙の時に、どれだけ耳を澄まし、メッセージを聞けるかによって人生は変わるのだと思う。私は手術をして生まれ変わった。あの時の記憶の総てから学んだことは、やはり人間には希望が残されていてそれを信じきることで何もかもが変わる、そして生ききることができるのだということだった。お金がなければ生きれない、仕事がなければ生きれない、というのは全くの嘘っぱちだ。そんなことはない。どんな形であれ、生きようと思えば生きられる。生き延びることもできるし、生ききることもできる。本当に大切なのはくるはずもない未来の不安や人の作り出した意見や文句や絶望ではなく、今この瞬間の自分自身だということ。絶望するなら純粋な絶望をするべきだ。なぜなら誰かの作り出した絶望や幸福で自分を腐らせている暇なんて、君には毛頭ないはずだからだ。

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