第10段 家居のつきづきしく、あらまほしきこそ。

徒然なるままに、日暮らし、齧られたリンゴに向かいて云々。

家というものは、そのひとの心模様を表すという。家、というか部屋、といったほうがわかりやすいだろうか。確かに、色々と頭がごちゃごちゃしている時には部屋も同じようにごちゃごちゃとしているものだ。私はつい最近、断捨離をした。つい最近、といってももうかれこれ2ヶ月前に遡る。ある印象的な予知夢のようなものを見て、ああ、これは、捨てねばならないと思い、家にあるものの9割を捨てた。ゴミ袋にして50袋分ほど、業者も呼び、家のゴミ捨て場に捨てまくり、なんとか新月の日までに終わらせたことを覚えている。今ではすっきりさっぱりとした我が家だが、物を捨てることによって得たものはやはり、『親離れ・子離れ』の感覚だった。それはまあ、過去の記事を読んでもらうこととして、家というものについてなのだが私の母は逆に、全く家を掃除しない人間であった。実家の様子を思い起こしてみるのだが、もうあたり一面の段ボール畑、いや、段ボールの嵐だ。その昔、実家を訪れた私の祖父が、『まるで空襲の後のようなな(ようだな)』と感心していた。戦時中の人間が言うと非常にリアリズムのあるこの言葉だが、いやまさに、戦争を経験していない私にすらそう写ったのも確かである。ある日のこと、高校生の頃だっただろうか。部屋を掃除することに目覚めた私は、家を綺麗にしてやろうと思った。さらにはサプライズ好きな私なので、母が留守の間に綺麗にし、とにかく驚かせてやろうと思った。勉強はできない私だけども、掃除くらいできるんだぜ!的な気持ちもあっただろうか。とにかく褒められたい一心だったのかもしれない。あの時の気持ちは今でもまざまざと覚えている。私は片っ端から段ボールやゴミなどを全て捨て、家をとにかく綺麗にした。散らかった靴箱を整頓し、トイレも風呂も何もかも磨き、台所、コンロなどもピカピカに磨き上げた。集中すると信じられないくらいの力が出る私である、物の見事に6時間ほどで一通り、『綺麗な家』と言えるくらいまでには掃除することができた。これで母も、私のことを一役買ってくれるだろう。私はいい娘を産んだ、親孝行ものだ、くらいには思ってくれるんじゃないだろうかと思い、母の帰りを今か今かと待ち望んでいた。しかし、悲劇は起こった。私の承認欲求は決して母の心を満たすことはなかった。『ただいまー・・・・・』家に帰って来るやいなや、母は沈黙した。押し黙ったまま、廊下をのっそりと歩いて来る。私は満面の笑みで出迎える。『お帰りなさい!(さあ、褒めてくれ!私の努力を認めてくれ!心の準備はできている!)』漫画のような話だが、それを打ち破ったのは信じられないくらいの怒号だった。『なんてことしてくれたの!!!!!!!!』母は激怒した。わたしは絶句した。なぜ怒られているのか全くもって分からなかった。ン?私はいいことをしたのだよな、壊れたレコードのようにそう自分に何回も言い聞かせたがそんなことは御構い無しだった。恐ろしい現実がのしかかって来る。不条理の歯車は私を追いかけ追い詰め畳み掛けて来る。その流れはもう、誰にも止めることができなかった。その後、母は怒りの沈黙を漂わせたまま、包丁を握り、ただひたすらに野菜を切り始めた。まるで修行僧が精進料理を熱心に作るかのように。トントンと言う音が、自分を責め立てる音に聞こえた。刑の執行を明日は我が身と怯えながら待ち続ける、死刑囚の気分だった。生きた心地がしなかった。そして一言も喋らないまま夕飯のカレーをお腹に流し込み、そそくさと風呂に入って一目散に布団に入った。悔しさや恥ずかしさよりも、ただ混沌とした「混乱」がわたしのなかに渦巻いた。この世には、時としてその時の自分には理解できないことというのが存在する。今思えば、『自分の領域を侵されたくない』という母の気持ちもよくわかるのだが、それにしてもあの時感じた『不条理』の感覚は今だに消えることはない。私が異常に人の顔色を伺ってしまう癖が出るときは、だいたいこのころの自分が憑依している。別物として捉えようとしても、別物と思えない時がある。全ては繋がっているのだ。過去も現在も未来も。それでもやはり過去は過去なので、その時の教訓として『お節介を押し付けるのはやめよう』ということになった。無理やり相手のフィールドに入ることは避けること、そして自分が良かれと思ってもそれは相手にとってはそうでない可能性が非常に高いこと、信じられないようなポイントで相手を傷つける可能性はいくらでもこの世に散らばっていること。そう考えると世の中地雷だらけだ。生きているのが嫌になる。それは今だに肝に命じている。だが、もちろんそれだけでは非常に味気ない人生になってしまうので、関わりたいと思えば関わるということにはしている。そこらへんは時を経て、少し、できるようになったと信じたい。家は全てを物語る。家は全てを知っている。家は、全てを包み込み、覆い隠し、そして洗い流す。家とはそういうものだ。家とは人間にとっての繭のようなものでしかないのだ。わたしたちは蛹。家という繭のなかで、ただ羽化の時を待ち続ける幼虫にしか成れないのかもしれない。







コギト・エルゴ・スム

踊る哲学者モニカみなみ

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