私たちは、本当の哀れみを知るために生きている。
『主よ、哀れみたまえと私たちは唱えますが、実は私はこの日本語訳はあまり好きではありません。なぜなら、哀れみ、というと同情の意味合いが強くなってしまって"Kyrie eleison(キリエ・エレイソン)"という言葉の持つ本来の意味が見失われるような気がするからです。』こう仰ったのは、今は亡きF神父様だ。私に洗礼を授けてくださった、とても気骨のある神父様だった。モニカという名前がいい、と相談したところ、『ほう。モニカですか。モニカは大変ですよ、あなたはこれから、もっともっと人のことをたくさん考えなくてはいけません。健康な人も、病気の人も、世界中で苦しんでいる人も、喜んでいる人も、身近にいる人も、遠くにいる人も、裕福な人も、貧しい人も、とにかくたくさんの人たちのことを考え生きねばなりません。人間は、好き嫌いに関わらず、良いことはできます。しかしそのことに惑わされてはいけない。私のこの言葉の本当の意味がわかったとき、あなたは真の慰めや、私のいう、哀れみについてのなにがしかを少しだけ、理解することができるでしょう。お祈りしています。』人のことを考える、とは何だろう。巷では、『自分を生きろ』とか『自分のために生きろ』と言う。でもどうだろう。自分のために生きる、の本当の意味はおそらく、自分自身のことを扱うように人のことも大切にしろ、と言う意味なのではないかと思う。それを履き違えて傍若無人に振舞ったり、かたや仮初めの優しさで安心をつなぎとめたりする。それは自分を大切にすることとは程遠く、相手を使った自慰行為に他ならない。最近、電話があまり得意ではない話を動画でした気がするのだが、その一つがこれである。ああ、いま、こいつの何か報われないものをなすりつけられているんだな、と思った瞬間に『私はお前のTEN○Aじゃない!!』と叫びたくなる。どうしようもなく、助けを求めているのならばまだしも、そうでなくただいたずらに過ぎ去る時間を、私を媒体にして消費されていることが耐えられないのだ。誰だってそうだ、私だけではないはずだ。ぞんざいに扱われていい人なんて、どこにもいないはずだ。そんな暇があったら水風呂の一つにでも飛び込んで頭を冷やしてこいと思う。よっぽど生きた心地がするはずだ。人間は時として、身体でしか学べないことがある。頭にも、身体にも限界がある。その両方を知って初めて物事の本質を知るのではないだろうか。話を戻すと。私は、哀れみ、と言うべく状況を体験したことがある。私は過去にインドカレーのお店を経営していた。短い期間ではあったが、そのときは非常に貴重な体験をさせてもらった。『20代のうちに社長になろう』と大学生の時に決めていたので、その目標も叶えることができた。あの一連の出来事でもっとも重要だったことは『ある程度のどん底を経験すること』だったように思う。そしてその時の人間の苦しみや心持ちを知ることにあったような気がする。お店が無くなることが確定した時、大切に育てた子供を目の前で殺されたような気持ちになった。道端で元気に遊んでいる可愛い我が子を、巨大なダンプカーが轢き殺していく。その子供の肉の破片を、無我夢中でかき集めて喚く自分がそこにはいた。私は子供を殺された。私の人生が壊された。もう何も残っていない。何もかもなくしてしまった。そう思った。そして何よりも、周りにそのことを告げるのが恥ずかしくてたまらなかった。アドバイスをもらったにも関わらず、お店を潰してしまったこと。多大な借金を抱えたこと。応援してくれた人たちに合わせる顔もなかった。本当に恥ずかしくてこのまま死んでしまおうかと、本当に思っていた。ショックで飲食店で食事をすることができなくなった。唯一、親友にはメールをすることができた。家族にはできるだけ会いたくなかった。関係ない仕事をとにかくして、借金を少しでも返さねばと言うことだけは頭にあった。こんな時でも、時間は止まってはくれない。私が泣こうが喚こうが、精神疾患になろうが寝たきりになろうが、朝が来て、夜が来る。世界はかくも残酷に見えて、そして時としてとても穏やかで優しい。もはや一種のDVじゃないか、と思うことが多々ある。そうしてしばらくして、私は階段で転び、寝たきりになった。たまたまCTで卵巣嚢腫が見つかり、手術をすることになった。寝たきりになると、当たり前だがトイレにもいけず、風呂にも入れない。ご飯も横を向いたまま手づかみで食べる。私は悔しくて惨めで、それでも手づかみで食べれるものだけは全部残らず食い尽くしてやる!と思って、あんかけや汁物以外は全部食べた。あれが精一杯の反抗だったように思う。このまま全てをやってもらう生活になったらいよいよおしまいだ、と、どこかで頑なに思っていたのかもしれない。尿が溜まるバッグをつけているため膣には常に違和感があり、痒くなってくる。髪の毛は長いので油や汗や涙でベトベトになって固まってくる。隣で女の人が、シクシク泣いている。彼女はどうやら腸閉塞で入院しているようだった。腸閉塞は痛くてたまらない上に、飯も食えない病気だ。そう思うと、私はまだマシだと思った。動けこそはしないが、飯は食える。痛みは動かさなければ感ずることはない。緊急入院して1週間ほどでようやく少し上半身を起こせるようになった。歩けこそしないものの、久しぶりに見る天井以外の世界はとても大きく、そして寛く見えた。船や岸壁の上から、大海原を見ているようだった。そうして間も無くベテランの看護師さんが2名ほど来て、身体を拭いてくれた。彼女は私のベトベトに固まった髪の毛を一本ずつ丁寧に剥がし、油を拭い、そして櫛で綺麗に梳かしてくれた。そうして次に、背中も優しく撫でるようにして拭いてくれた。熱々の蒸しタオルだった。タオルが纏っている蒸気と看護師さんの大きく柔らかい手が、脊椎の神経を一つ一つ丁寧になぞっていく。触れられたところに感覚が戻り、血の流れを感じた。『生きているんだ』と思ったことと同時に、『生かされているんだ』とも思った。そうして彼女は私にこういった。『こんなに若くて綺麗なお嬢さんが、一体、どうしてこんな目に遭うのだろうね。かわいそうにね。』そう言われた瞬間に、私は何か、何かよくわからないものがこみ上げてくるのを感じた。ぶつ切りになっていた私の感情に、色がついた。そうしてこみ上げてくるのと同時に、空虚でいて、それでも変な匂いのしない、暖かい熱波のようなものが私の中を吹き抜けていくような感覚もあった。それはとても、心地よい瞬間でもあった。そうしてその時に思った。『ああ、これが、本当の哀れみか・・・。』あの時の、彼女の言葉と手の暖かさは、間違いなく、寸分の狂いなく、ラテン語のKyrie eleisonだった。本当の哀れみは、とても心地よくて、美しいものだった。人生を歩むなかで、人間自身というよりも、人間の外側、大いなるものや自然などに美しさを見る機会が多い。それでもやはり、人間に宿った美しさはまた別段に、美しいと感ずることが多いのも確かだ。世界は本当の哀れみが為された時、本当の輝きを放つのだと思う。私は本当の哀れみを、為すことができる日を、心待ちにしている。
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