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女か男か、それでも女か。

ニワトリスターという映画を見た。明らかにアホっぽい名前だったのでまあ、なんかこう、こざっぱりしたコメディだろくらいに思っていたのが大きな間違いだった。想像以上にバイオレンス、セックス&ドラッグのオンパレードで眠れなくなってしまった。ああいう世界観のものを見るとどうしても、闇に浸かりたくなる。闇の世界は当たり前だが浸かりすぎると死ぬ。死ぬ前に抜け出すという決意を持っていかないと呑み込まれて終わる。私も御多分に洩れず、何度か危ない目にあった。というのも、私はそういった世界の人間に非常に人気がある。着物が似合うからだろうか、気が強そうに見えるからだろうか、兎にも角にもすぐにそういった人間は私の元へわんさか群がってくる。そういう時、女の私はいつも思う。世界は、女が思っている以上に男と女でできている。ほぼ9割が性欲で成り立っており、残りの1割に目を向けることができなければおそらく絶望して死ぬだろう。総ての人がそうだとは言わないが、レズビアンバーに来ている子たちは、そんな子達が多いように思った。みんな疲れているのだ。疲弊と不満と怒りで満ち満ちた、おぞましい何かを抱えながら生きていた。だからこそ私は時たま、レズビアンバーに無性に行きたくなる。何をするでもない、被写体探しでもない。ただ、そういう子たちと話がしたい。同じ空気を吸いたい。そんなことを漠然と思う。そうやってどこか、心の均衡のようなものを保っているのかもしれない。人間には性(さが)がある。人間に限らず、動物も同じだ。みんな抗えない性を持っていて、そうしてそれに従って、時には抗おうとし苦悩して葛藤して生きていく。私の性は何かと言えば、おそらく『経験すること』だ。経験絶対主義といってもいい。たとえどんなに小さな経験であっても己の目と耳と第六感で体感して語りたい。語るために経験するわけではないのだが、好奇心が抑えられないのである。一度興味を持ったら最後、永遠にそのことについて考えている。そうしてそのことを実行するまでその思考は留まることを拒否する。こうやって書くと、私はなんでも経験できる強者に思えるだろうが決してそんなことはない。一度、自分自身にバイセクシャル疑惑が持ち上がった。過去に何度か、この女(ひと)になら抱き潰されてもいいと思ったことがあった。私は女性とセックスはしたことはないのだが、キスやそれ相応のことまではしたことがある。高校のとき、とある女の子と仲が良く、いわゆる付き合っている状態だった。私は女の子と一緒にいると、いわゆる業界用語でいうタチになる。簡単に言えばだらしない男のようになるのだ。その時も、私の不手際で彼女を大変に怒らせてしまい、結果的に捨てられた。『あなたの人生も私のように、滅茶苦茶になって塵になればいいのに。』と言われた。今思うとすごいセリフだ。あの時彼女に言われて初めて『滅茶苦茶』という言葉の意味を知ったような気がする。そして思えばあの日から、捨てられるのが心底嫌になったのだとも思った。誰かに捨てられるのがこんなに惨めで恐怖を感じるものなのか、生きているのが嫌になったからなのか定かではないが、捨てられる前に捨ててやろうと思ってしばらく生きていたような気がする。負け戦をしたくないというこだわりはここからきたのだろうか。今はあまりそんなことも思わないが、総ての根っこはこの経験に由来するような気もする。話を戻すと、バイ疑惑が持ち上がった時にいわゆる『レズ風俗』なるものを利用してみようと思い立った。女性とのセックスがどんなものなのか、どんな気持ちになるのか、ただそれだけに興味があった。乱暴な言い方をすれば、『私は女とセックスできるのか』を手っ取り早く知りたかったのだ。女の肌は吸い込まれるように絡み付いてくるという。女の体を持っている自分には全くその感覚はわからないが、体感できるものならしてみたいと思った。だが結局その経験は果たされることはなかった。理由は、お願いしていた方の体調が良くなかったこと、そして私自身もかなり心の中でビビってしまっていたこと、その2つが運よく(悪く)重なり話は流れた。その後、結局は好きだと思った人の性別が男性であり、女性への興味もそこまでなくなってしまったのでこの話はそのままになっている。そして結果的に思ったことだが、女とやるとか男とやるとか結局そんなことはどうでもいい。セックスはしたい人とするのが兎にも角にも幸せなのだ。女はセックスで死にたいと思うし実際、死ぬと思う。貫かれて死ぬ。なんとなくだが、母性という観念に溺れていると腑抜けになって何もかもがふやけて面白くなくなってくる。つまりは、体に異物が欲しいと思うのである。だからこそ思い切り突きあげて欲しくなる。そうして何か、自分の中の散り散りになった秩序のようなものを組み立ててもらいたがっているのかもしれない。そう思うと、女は実に哀しく乱暴な生き物である。だが、男に理屈ばかりを求めていても始まらない。女という生き物も、自分の中に少年や青年がいる。親父もジジイもいる。だからこそ女はその男の面倒を見なくてはならない。彼をほっぽらかしていると、永遠に締まりのないだらしない生き物になってしまう。これについては長くなるのでまた書くことにしよう。唐突だが、今はお勧めされた映画『孤狼の血』を見ている。連日のバイオレンス映画のせいだろうか、組手のせいだろうかはわからないがアドレナリンが異様に放出している。最近少し腑抜けになっており書きたいことを書こうと思っていたので、ちょうどよかった。これからはもっと、もっと自由に書いていこうと思う。人生万歳、人間礼賛。

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