第11段 来栖野といふ所を過ぎて。

徒然なるままに、日暮らし、齧られたリンゴに向かいて云々。

突然だが、ホムンクルスの能力が欲しいと思うことが往往にしてある。私は列記とした厨二病患者なので、そういった、いわゆる錬金術や黒魔術的なものは非常に大好物である。その昔、アマ◯ンか何かで『黒魔術セット』なるものが売っていて即購入したことを覚えている。実際、どこかのよく分からない海外出品者のものだったので結局手元に届くことはなかったのだが、それでもあの頃からこういった技術や魔力といったものに対する憧れは未だ消え失せることはない。さて話を戻すと。ホムンクルスとは何か、ということになるのだが簡単に言えば人造人間を造り出す事や技術そのもののことである。天下のウィキペディア様を引用させていただくと、『製法はルネサンス期の錬金術師パラケルススの著作 De Natura Rerum (『ものの本性について』)によれば、蒸留器に人間の精液を入れて(それと数種類のハーブと糞を入れる説もある)40日密閉し腐敗させると、透明でヒトの形をした物質ではないものがあらわれる。それに毎日人間の血液を与え、馬の胎内と同等の温度で保温し、40週間保存すると人間の子供ができる。ただし体躯は人間のそれに比するとずっと小さいという。ホムンクルスは、生まれながらにしてあらゆる知識を身に付けているという。また一説によるとホムンクルスはフラスコ内でしか生存できないという。パラケルススはホムンクルスの生成に成功したとされる。しかし、彼の死後、再び成功した者はいなかったという。』とのことである。ほうほう、ここまで詳しく書いてあると是非とも実験してみたくなるのだがいつも最初の段階で蹴つまずいている。こういう時、男に生まれていればどんなに楽だったかと思うことがある。実際、自分が懇意にしている男性にこういったことを頼めるかといえば不可能に近い。『すいません、あの、ちょっとした個人的な実験のためにここはひとつ、あなたさまのその、貴重ななにがしかをほんの一滴、頂戴することは可能でしょうか。』だとか、もしくは自ら先陣切って吸い取ってしまうしかない。どちらにしても元祖奥手女子代表の私としては、非常にハードルが高い。しかし妄想は自由である。実際にこれを行ったからといって人造人間が生まれて来るはずもない。しかしそうとも言い切れないのではないか、という希望的観測もできる。所詮人間の頭はどこまでいっても机上の空論だ。人体と実際の物事については未知なることが往往にして含まれている。その楽しみだけは誰にも奪うことができない。さて、くだらない話ばかりしてしまったが、実際人造人間を造ってどうするのかということについても考えてみよう。あなただったらどうするだろうか。まず私だったら一人は自分を客観視するために利用するかもしれない。自分という存在は自分自身で直視することはできない。つまり、私でいえば自らのダンスを直視することは一生かかってもできないことだ。なので自ら踊っているところをもっぱら観察し、ダンス技術向上のために生かすかもしれない。自分で言いだしておいてなんだが、あまりにも現実的すぎて地味だ。他にはもっと改造して男版の自分を造り出すかもしれない。私には昔から、かなりの割合で『男になりたい』願望がある。男の人の体つきや、精神的な面や、理知的な面、時に少年のような冒険心などに非常にあこがれる部分が多い。しかしなぜだろう。最近不思議なのは、男性のようにやれそのままにと同じような行動をとってみてもあまり幸せになれることがない。これは人によりけりの可能性ももちろんあるのだが、やはり女には女の役割があるのだな、と思うことが多くなったのも事実である。そもそもどんなに痩せても体が重い。脂肪がついていることもあるし、おっぱいやお尻や子宮などの臓器、黄体ホルモンやエストロゲンと言う名の体内麻薬も相まって拍車をかけているのだろうか、なんてことをよく思う。なんだか言い訳のようになってしまったが、ここまで書いてみてひとつわかったのは私は人造人間を造り出したところで特段やりたいことはないのだなと言うことである。やはり経験や体験は自分の体を通してやってみたい。もちろん、ひとつの体では断然たりないのだがだからこそ選択することに喜びがあるのだとも思う。聖人君主のように生きるのも、自堕落及び酒池肉林の限りを尽くすことも自由だ。ただし一つだけ確かなことがある。それはどんな風に生きたとしても、人間は一人で生きている限りは決して幸せになれないのではないかと言うことだ。一人で生きることはそもそも物理的には無理なのだが、それでも肩肘張って『あたしャーひとりで生きて行くのでありんすよだんなぁー』なんていってみても、それもまたなんだかあまり面白みのない人生になってしまうだろうと思う。おもしろきことはやはり、他人様に含まれている。珍事、荒事の類いはいつだって他人様が持ってきてくれる。ついこの間とある人物から、『神は他人の中にいる』と言う話を聞いたのだが、まさにそうだなと思い感心している。人生は色々と事件も事故も多いので、出来るだけ傷つかぬようにと時には石橋が壊れるほどまでに叩いてしまうことも多い。だが、そうやって傷つかぬようにと、せっせせっせと城壁を作ってしまっていては、それこそ元も子もない。壁は時には必要だが、それでもできればその壁というものも『霜柱』程度の大きさや強度にしておきたいところだ。踏んで崩れるくらいがちょうどいい。壁なんて壊してなんぼの代物なのだ。破壊ののちに再生がある、人生も芸術もみな同じだ。ちなみに私が生まれた年にはベルリンの壁が崩壊している。是非ともそれにあやかった人生を送りたいと思う今日この頃である。







コギト・エルゴ・スム

踊る哲学者モニカみなみ

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