「奴隷予備軍」の反乱 今の世代の子たちはひょっとしたら本当に「振り子」の支配を打ち砕くのかも
正しいしつけとされていることは本当に正しいのかな
「お駄賃」という言葉があります。
何かお手伝いをしたらいくら、肩たたきをしたらいくら、言いつけを守ってそれを遂行したらお小遣いがもらえる。
野放図に子供が望むままに与えるのではなく、労働や頑張りの「対価」として何かを与えることは一般的に正しいしつけとされています。
きっとこれを「それって本当に正しい?」とか言うと、Xとかだったら荒れるのかしら。
『お金がもらえることや自分にとって良いことは、他者からの要求に応える事との引き換えで手にすることができる』と、
「お駄賃」というシステムで子供のころからそれは刷り込まれていきますが、
私は本当のお金持ちの人たちの生活については知りませんが、
おそらく本当のお金持ちの人たちは、子供たちに対して、
『欲しいものは自分の望みに応じて、またはランダムに、自分の想像を超えて与えられる』としているかもしれません。
少し前にネットで見た記事で、
お母さんが子供に一生の流れを図に描いてみせて、
「ここの10年間を頑張って勉強すれば、ここではこうなって、この頃にはこのぐらいの年収になって、老後までとても安定した幸せな生活が送れるわよ」とわかりやすく解説しているものでした。
もちろん、子供のうちにたくさんの知識を身に付けておくことがよいのに異論はないですし、勉強をしておくことでその後の可能性も大きく広がるので、勉強すること自体はとてもよいことなのだと思うのですが、
おそらく〇〇幼稚舎などに進む子たちは、同じように勉強するにしても、その「老後までの安定収入の図」は頭にはないのではないかと思うのです。
「それは、実家がお金持ちだったり事業をしていたりで将来が約束されていればその必要はないかもしれないけれど、普通の家庭の子には必要よ」
現実的にそうだと思います。
けれど、それは私たちが皆そうやって信じ込まされてきたからかもしれません。
子供のころからの「振り子」による「洗脳」
本来本を読むのは好きですしかなり早く読めるほうなのですが、ヴァジム・ゼランド氏の「振り子の法則」シリーズに関しては、まるで誰かに邪魔をされているように読めなかったり、読んでも即忘れてしまったりするのですが、朗読したり工夫をして読み進めています。
「振り子の法則」の「振り子」のおぞましさを知るにつれ、子供のころからの何もかもが「奴隷予備軍」養成としてのシナリオのように感じます。
子供のうちに私たちは、学校教育やテレビや児童書などで、貧乏や苦難に立ち向かう尊さ、たゆまぬ努力のもたらす成果、皆との同調を乱さず協力することの大切さ、そんなものを繰り返し学んできたように思います。
そうして、一部の幸せな人を除いては、
学校を出たらお金を得るために仕事に従事して、皆が結婚する時期に結婚し、皆が家を建てる時期に建て、子供を首尾よく進学させ、
それらはそれぞれ世間で決められたように必要な「相場」のお金を捻出し、それがためにますます頑張って働いて、
やっと退職して自由の時間ができる頃には、休みなく働き続けた結果の不健康な老いた体が残される。
不調に悩まされたり闘病生活に入る人も少なくありません。
一昨日「やる気でない」との記事で、
私はこんなことを書きました。
「振り子の法則」シリーズ第2巻、「願望実現の法則」、もう何度か読んでいるのにまるで読むたびに初めて読むような新鮮さよ。
本当に誰かが頭から抜き去っているかのように覚えられない・・・
それはともかく、
上記に書いたことへの答えのような箇所、そして振り子のおぞましさと対処法がよくわかる箇所がありましたので、引用したいと思います。
「重要性に付け込まれたら、すぐに負けてしまう。しかし、重要性がゼロであれば、振り子は空をつかんで崩れ落ちる。」って、
なんか、映画「マトリックス」味がありますね。
第1作目の終盤のネオとスミスの戦闘シーンみたい。
生き返ったネオが「あー、はいはい」ってだるそうに応戦するところ。
振り子の挑発と振り子が存在しない世界
引用のはじめのほうに、
”もし世界が振り子から解放されたら、どういう姿になるのかイメージしてみよう。もしエネルギー情報のやり取りがなくなるとしたら、他人のエネルギーを奪おうとしたり、競争を産み出そうとする構造が存在しないことになる。想像しにくいことかもしれないが、そのような世界ならば、幸せが溢れ、苦しみは少ないはずだと自信をもって断言できる。そのような世界では、自然の恵みやチャンスは全員に行き渡ることだろう。”(☆)
とあります。
最近になって「なぜ縄文時代はあんなに長い期間平和に続いていたのか」と検証する人が増えているようですが、
土器や装飾品を作って過ごし、争いもなく、田畑を耕すこともなく、ただ採ってきて分け合えば食べられる生活、
ひょっとしたら縄文時代には「振り子」の概念は生まれていなかったのかもしれません。
今の常識では想像ができませんが、「外的意図」を使えば、年中温かく快適に過ごして必要な食料を労することなく手に入れるのは簡単なことだったのかも。
(ちなみに「振り子の法則」第一巻では、ピラミッドの建設は私たちが想像できるような工法ではなく「外的意図」を用いた魔法のような方法だったと書かれています)
そして現代では、振り子のルールに従って皆考えたり行動したりして、「魂」の喜びを感じられないで生きていますが、
重要性をできるだけ低くして振り子の挑発をかわすことで、本来は泥人形のようなものである振り子が消え、ゲームに勝利することができると。
ただそれまでには、「振り子」は私たちを簡単には放っておいてはくれず、計画を叩き壊し、感情を刺激し、これでもかと妨害をしてくる・・・
振り子に、そこまで!?というぐらいに徹底的に痛めつけられて、その後ゲームに勝利したと私が思う方。
ほかにもいらっしゃるかもしれませんが、
あの有名な奇跡のリンゴの木村秋則さん、あとkindleベストセラー作家の慈恩さんがいらっしゃいます。
お二人とも「どうしてそんなに」というような、度重なる失意や、家族も困窮するような苦労の末、もはや動くこともできず、「どうにでもなれ」となったのちに、劇的に人生が好転して、
まさに、重要性を持とうにも持てないほどに痛めつけられたのちに最後にゲームに勝利したという感じに思えるのです。
これは私が「トランサーフィンを信じるとすれば」の話ですが、
このような長年にわたる不屈の努力、信念、苦労、繰り返す絶望は「振り子」にとってこのうえのないごちそうだったかもしれません。
振り子、恐ろしいです。
えげつないです。
「個」の時代に育ち重要性を手放すことに長けた世代
最初の方の私の過去記事の引用で、
”2025年に、私たちのエネルギーをゴンゴン吸い上げていた「振り子」の親玉のようなものが壊れるとか、何かエネルギー収奪に関して変化があるとか、そういったことはないのでしょうか。”
と書きました。
それは、2025年に関して語る人たちの多くが「その後はすばらしい世の中になる」とおっしゃっていて、「それってひょっとして『振り子』に異変があるってこと?」と思ったからなのですが。
あと1年やそこらでどれほどの変化があるのかわかりませんが、
もし「振り子」がなくなれば、ゼランド氏のいうように、
「幸せが溢れ苦しみは少なく、自然の恵みやチャンスが全員に行き渡る」すばらしい世界になるに違いありません。
そして私はその変化の萌芽が今の若い人たちのような気がするのです。
もちろん全員ではありません。
ほとんどが、いわゆる「現代の私たちの世界の基準」で「まじめ」で「責任感がある」子たちなのだと思います。
一方で、学校や職場などに所属して、そこが、「理不尽だ」「自分のいるべき場所ではない」と感じたら、無理をしてそこにしがみつくことに重要性は持たず、そこから立ち去ることをあっさりと選択することができる、
「振り子」が揺すぶろうとしてきたら、身をかわすことのできる子供たち。
「そもそも重要性を持たない」
こういった子供たちが増えることは、振り子にとっては脅威になるかもしれません。
しらけ世代という言葉がありました。
wiki中の
「以下、本項では主に 3. の定義、つまり1950年(昭和25年)4月2日~1968年(昭和43年)4月1日に生まれた世代で記載する。」というところで、
あまりにきっちり期間が区切られていてつぼったのですが。
今の若い人たちは、しらけ世代が作り出した仕組みやコンテンツが生まれた時から当たり前に揃っていた世代になるでしょうか。
いわゆる「世界名作劇場」などテレビで「子供向け」に放送されていたものではない、多彩なwebコンテンツが手元のスマホやタブレットで小さいころから個人で楽しめた世代
web記事や動画で、画一的でない幅広い情報に触れ、自分なりに何が正しいのか探ることができる世代、
学校に属していなければ不安で仕方がなく、居場所もなく、学校を休めば「NHK教育テレビ」ぐらいしか見れなかったのとは違い、全世界の全年代の人たちとスプラトゥーンをして無限に楽しめる世代、
かけがえのない青春時代が流行り病で台無しになったのに、わずか数年で何もなかったかのように社会が変容する矛盾と理不尽を肌で感じた世代
リモートやテレワークなどが社会常識になっていて、webでの学習の機会や仕事の機会が豊富な世代
動画などでどこにも所属せず「好きなこと」で楽しんでサラリーマンの何倍も豊かに生活している人を目にしている世代
「結婚式」「お葬式」「年賀状」「お中元・お歳暮」など慣習として盛大に行われていたものが「もういいんじゃない?」となっていくのを知っている世代
あまりにも「振り子」の挑発がひどく、努力しようにも実家が太くないと過酷すぎて頑張りようがないことに「親ガチャ」などの言葉で気が付いてしまった世代
このように、私が育ってきた時代とはまったく育ってきた環境が違う若い人たちは、★で囲んだ複数の「・・・を信じてはいけない。」をまさに「信じてはいない」世代なのかもしれません。
振り子自体に実体はなく、何物にも重要性を与えず振り子からの挑発に乗らなければ振り子は瓦解する。
ただ、引用にもあるように「振り子は簡単には放っておいてくれず」、
「重要性」をあっさり手放せる若い人たちが増える半面、
振り子から高額な学費や奨学金や社会保障費その他を課されて、自由になりたいという心を砕くには十分なほどの重荷で挑発し揺さぶられて苦しんでいる人たちも大勢います。
来年なのかそれとももっと先になるのか、
もし今常識とされる「〇〇せねばならない」を華麗にスルー(古)できる世代が増え、
さんざん振り子に洗脳され振り回されて疲れ果てていた私たちもそれに影響されて、
エネルギー欲しさになりふり構わずやりすぎた「振り子」の挑発に開き直って、
「もうどうにでもな~れ」となったとき、
本当に世界が変わるのかもしれません。
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