須田さんからの宿題 『メディアが伝えなかった復興物語』 上映会開催までの経緯①
そもそも、かれこれ十余年前から始まった桂吉坊師匠の落語会『さばのゆ吉坊ひとり会』のお囃子で呼んでいただいたことが、須田さんとのご縁でした。吉坊さん、ご縁を本当にありがとうございます。
程なく東日本大震災があり。『希望の缶詰』や東北への慰問落語会のお手伝いをさせていただきながら、自著での対談や須田さんが担当されていたラジオ番組のレギュラーなど、メディアのお仕事もご一緒させていただきました。須田さんからご提案いただいて三味線教室を開いていた時期もありました。
また、持ち込み企画イベントもたくさん打たせていただきました。政治的だったり、台湾的だったり、はたまた知人救済的だったり。持ち込む度に須田さんは笑顔で『やりましょう!』と快諾してくださったのでした。
そうこうしているうちにコロナ禍になり、多分に漏れず私も体調を崩し体力が激減、経堂から足が遠のいてしまいました。体力が戻って来たのは昨年12月に入ってからでした。
12月19日は特に朝から体調が良く、チェックしておいた映画の上映日だったことを思い出し、新宿K'sシネマに向かいました。
それが『メディアが伝えなかった復興物語〜水産加工業10年の軌跡〜』というドキュメンタリー映画との出会いでした。『希望の缶詰』が出て来るんじゃないか、という期待を持って観ていたら、早々に登場してニヤニヤしてしまいました。しかし、そんなニヤニヤを打ち砕くように厳しい現実が次々と映し出され、雷に打たれたような衝撃を覚えたのでした。
さらなる衝撃は上映後に訪れました。監督である田中敦子さんの作品解説が始まったのですが、実にそのパワフルなこと!パッションなこと!こんな華奢な、こんなお歳(推定70歳、実は81歳!)の方が、なぜ10年も通い続けることが出来たんだろうか。解説を伺いながら、私の頭の中は、監督への興味でいっぱいになりました。
この作品を『希望の缶詰』に携わった人たちに観てもらいたい。そしてこの作品を作った人の熱意をたくさんの人に知ってもらいたい。まずは須田さんだ。すぐに連絡しました。『希望の缶詰』が扱われていたこと。すごい人を見つけたこと。上映会を開かせてほしいこと。
12月22日18時。さばのゆに伺って資料片手に相談しました。『やりましょう。ただ、ノスタルジックなイベントではなく、これからにつながるものにしましょう。僕がいろいろリサーチして構成します。3月から月イチめどで上映イベントやりましょう』。須田さんの脳内で企画のスケールが急に大きくなり、私の手からスルスルと離れていった感じがしたので、具体的な企画構成は全てお任せすることにしました。
12月27日。ブーメランで戻ってきました。
須田さんの脳内宇宙はとても計り知れず、そこですでに大きくなり始めていたであろう企画を自分だけで成し遂げることは到底できません。慣れない通夜葬儀の仕切りをしつつ、はてさてどうしたものかと思いあぐねていたのでした。(続く)
※上の写真は2014年彦八まつりにて。自分が撮った唯一の須田さんの写真かもしれません。右は瀧川鯉朝師匠です。