#578【旧ブログ2014年9月17日投稿】ロダンの貴重な入浴シーン(●REC)
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注意:
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ロダンの貴重な入浴シーン(●REC)
2014年9月17日
http://blog.livedoor.jp/moneylight/archives/52085307.html
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お久しぶりです。
という言葉が前口上のようになってきている我がブログである。
サボりすぎですよね、すんません。
ツイッターの我がアカウントをフォローしている諸氏であればお分かりではあろうが、ネットもできぬほど忙しかったり、新入社員であるにもかかわらず数ヶ月でシリア赴任を命ぜられたり、あるいは大病を患ったりしていたというわけでは決してない。
強いて言うならネット依存症という病を患っている。そりゃ大昔からか。
わしが居を構える江戸は確かに代々木熱だかなんだか良く分からない熱帯の感染症が流行っていたりする世紀末都市ではあるが、わしは風邪も引かず元気である。数ヶ月前とは変わりない、もっといえば大学・高校時代と変わりないマネーライトをやっております。
直近の更新が6月17日ということで、ゆうに三ヶ月も経たんとしてしまっている。
というわけでこの三ヶ月の近況でも報告しようと思ったが、特に書くことないんだなこれが。
140字以内で済むようなことばっかりで、改めてここで書かなくとも良いようなレベルのことばかりである。
ラブライブカフェに当選して満喫してきた話でもしようか?いらないだろ?
今しがた数分程この三ヶ月を顧みていたが、「いざ」と思って書くようなことは思いつかなかった。
金曜のエヴァを楽しみにしてたと思えば、あっという間に9月も後半だからな。
―諸君、社会人になるとはこういうことなのかもしれない。
飯田線乗った話とかしてもいいけど、写真うpするのめんどくさいから、気が向いたら顔本にでもあげときます。
リア・みつるたちの夏を満喫しまくってるキラキラとした写真のなかに、ひとつ電車の写真なんかあってもいいぢゃないかと思ふのです。
世の中バランスだからさ。
おれはバランス考えてツイッターや顔本やってんだよ。
嘘です。
こうして風呂あがりにPCにむかってブログを打つのも久しぶりではあるとはいえ個人的には実に馴染みの深い我が夜のスタイルである。
みなさんの毎日の入浴というのは、日々の生活においてどのような役割を果たしているであろうか。
おれにとっては、たいした答えではないが、ただの一日の区切りである。
一日を終えるための区切りである。
体を洗うという行為自体にそこまで意味はなく、一日に区切りをつけられればどんな行為でもよいわけである。
それとは別に、高温多湿の我が国では毎日風呂に入らないといささか衛生上宜しくないので、一日の終わりに入浴を行う。
そういう習慣と、一日の区切りとしての行為がただ意味もなく結びついているだけなのである。
いろいろ述べたが、早い話が「毎日やってるしやらないとなんか気がすまないもの」でしかない。
みなさんはどうだろうか。
おれはいま風呂に入る理由みたいなことを述べたが、別に「風呂に入る理由」を問うたわけではない。
皆にとって入浴することはなにか、何をしているのか、と少し思うただけである。
私が思うに、答えとして多く上がりそうなのが、「風呂に入っていると考え事をするのが捗る」というものだ。
よくいわれることであるし、おれもそう思う。
高校までは確かにおれもよく風呂で考え事をしていた。
小学生のときからそうなのだ。湯船にずーっと浸かり、いろんなことを考えていた気がする。
大学に上がってから(今もだが)風呂で考え事をしなくなった理由はひとつ、湯船にお湯を張らなくなったからだ。
一人暮らしの、しかもユニットバス生活。お湯張るわけがない。
とはいえ、実家に帰った時とか、たま~~~に銭湯とやらに行ってみたりする時は、よく考え事をしているような気がする。
何事からも離れ、ぼーっと考え事をするような時間と場所が、一日のどこかで作るものなのだろう。
ではおれが湯船にお湯を張らなくなったからといって、ぼーっと考え事をする時間がなくなったかというと、そうではない。
大学4年生のころに気づいたのだが、おれは自転車や原付に乗っているときに、入浴しているときと全く同じような感じで考え事をしているのだ。
そのときの気分や、思考の内容や、なにもかもがすごく入浴時に近しいのだ。
正直言って危ないので公道に出ないで欲しいのだが、いまのところ無事故なので、上の空で運転しているというわけではない。
中学高校は自転車、大学は原付通学だった。
片道それぞれ15分ないし8分程度なのだが、その時間は一日の中で非常に貴重なものだったように思える。
いちいち考え事をしていたその中身を覚えていないのでなんとも伝わりにくいのだが、す、すごくいろんなことを考えていた(KONAMI)。
よくおれは、中学高校時代、自転車で遠いところにいくのが好きだった。
昔からブログを見ている人は覚えているだろう。
遠いところといっても、京都市から出ることはあまりなかったが、特に目的があるわけでもなく3時間ずっと自転車をこいで京都市の端っことかまで休日に一人でいったりしていた。
高校の宗教(私立の仏教校なのでそういうのがある。正直言ってたいした授業ではない)だったか国語だったかの時間に、「センチメンタル・ジャーニー」という言葉について教師が話していたときに、「うわ、マネーライトやん!!」と周囲に笑われたことがある。
休日に一人で鴨川や桂川の河川敷をただ自転車にのって走りに行くことを、センチメンタル・ジャーニーだと友人たちは言ってのけたのである。なんて輩だ。
センチメンタル・ジャーニーとは、和訳すると「傷心旅行」。
定番なのは失恋したりだとか仕事で失敗したりだとか、何か心に傷がついたときにその心を慰めるためか紛らわすためか、旅に出かけるというその行為を指す。
個人的にはそんなことをしたら余計に寂しくなって落ち込むと思うのだが、そういう言葉があるので、そういう風習があるということは事実らしい。
一応、おれのチャリンコ放浪は別にセンチメンタル・ジャーニーではない(と言っておく)。
中高大において心に傷がついた回数と、自転車や原付で放浪した回数を比べると、全然吊り合ってないので、違うと思います。
振り返って思うのは、おそらく考え事をする時間を無意識的に欲していたのではないかと思う。
今でも原付で特に目的はなく(あってもあそこのラーメン食べに行こうとかいうこじつけ程度。電車で行ったほうが楽)半日走ってたりすることあるし、そうなんだろうと思う。
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む、今思ったが、傷心旅行が心の慰めや気の紛らわしではなく、悲しみを与える世間から離れてじっくり考え事をしたいという思いのもとでするものだとすれば、動機としてはおれのそれに近しいものがあるな…。まあいいやw
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さて、おれが「考え事をする場」としてなぜ「入浴」と「自転車や原付の乗車」のふたつを選んでいるのだろうか。
なぜおれが好きな「電車に乗っているひととき」ではダメなのだろうか。
やはりそこは、入浴と自転車・原付の共通点として、スマートフォンやPCから物理的に隔離されているというところなのだはないかとおれは思う。
電車に乗っているときはおれは好きで、乗り鉄をやっているのだけれども、なぜか考え事などはあまり捗らないのだ。
やはりスマートフォンをいじりはじめたり、本を読み始めたりしてしまうのである。
手元に何かがあるとそっちにいってしまう。
部屋にいるときもだめだ。TVをつけてしまう。もちろんスマートフォンやPCも。
風呂にはスマートフォンはもちこめない。原付を運転している時も、スマートフォンなんかいじろうものなら、事故を起こすかその前にパトランプが点滅する。
こうして己がどうしてもいじってしまうものから物理的に遠ざけられないと考え事ができないというのも情けない話である。
が、そもそもよくいわれる「風呂なら考え事が捗る」というのは、現代の我々にまとわりつくTVやケータイやPC、あるいは他人などといったものから物理的に隔離されるからなのではないだろうか、とおれはおもいました。まる。