#596【旧ブログ2015年9月28日投稿】戊辰の足跡・鉄路六十里越(後編)
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戊辰の足跡・鉄路六十里越(後編)
2015年9月28日
http://blog.livedoor.jp/moneylight/archives/52134333.html
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新しいiPhoneとiPadが出たので、昨日さっそく弄りにいった。
私は元来Android使いであるので、iPhoneにはあまり興味が無い。
初めてのAndroidは…当時3000円で購入でき、月3円で運用できることで有名だったメガネケースことIS01である。
その後はこれまた欠陥機の代表IS04レグザフォンを1年半ほど使い、その後はHTC J、そして2014年2月からGalaxy S4と渡り歩いている。
新しく出たiPhone 6Sは6からの違いが殆ど分からなかったが、iPadに関してはmini4は非常に軽くて気に入った。
最近私はタブレットが非常に欲しいかったので、これは魅力的であった。
そんなわけでiPad mini4が欲しくなり、となると今のGalaxy S4もそこまで気に入っているわけでもないので、
docomoを脱してauに戻り、そのタイミングでiPadを契約したくなった。
更新月は2月だが、違約金を支払ってまでMNPするかどうか…今悩み中である。
最大の問題は、現在auのandroid機種にまともなラインナップが無いことである。
今までAndroidといえばXperiaかGalaxyの2大巨頭があったが、S6 edgeは変な湾曲がついてて気に入らないし、
Z4はホッカイロ状態である。
安定のXperiaがついに欠陥機を出したので、Z5まで待つか、それとも2月の更新月まで待つか…といった具合である。
にしても我が国でのiPhone人気はすごいね。
私もおサイフケータイさえついていればiPhoneにしたい。
今日の本題はそれではなく、前回の記事の続きである。
前回のあらすじ\デン!/
金曜日に長野へと出張へでかけたついでに夜泊まって、翌日長野から18きっぷの旅へでかけたマネーライト!
突然の風邪をひいて意識が朦朧とする中JR飯山線の観光列車「快速おいこっと」に乗り野沢菜漬を食べ、十日町などを経由してJR東日本屈指のローカル線只見線へ!
半日弱気動車に揺られ、ついにこの日の最終目的地会津若松駅へ到着!
風邪は治るのか?マネーライトの運命や如何に!
今回の旅行の目的は
・飯山線に乗ること
・会津若松を観光すること
の2つであった。
この日は会津若松に泊まり、翌日は一切18きっぷを使わず会津若松で観光し、JRのハイウェイバスで東京に帰還するというプランである。
私は会津若松市にある「東山温泉」という温泉街に泊まることにした。

駅前からバスで30分ほどである。
決して別府や草津のような大きな温泉地ではなく、旅館の数も10いくかいかないか程度であるが、雰囲気はあった。
私が泊まったのは、「くつろぎ宿 新滝」という旅館である。
実はかなり奮発した。
今まで国内のいろんな場所に行ってはいろんな場所に泊まってきた。
その中でも今回は過去最高額の宿泊料金を支払った。
夕朝食付で、なんと1万6千円である。
しかもこれ、福島県のふるさと旅行券3000円クーポン使っての額である。
今までだいたい4,5千円のビジネスホテル、悪い時はネットカフェで1500円、良い時でも9000円程度のシティホテルに宿泊してきた。
その倍近いとんでもない金額である。
思い切って奮発したのだ…。
そして通された部屋がこれである。

お、俺のアパートより広い…
そりゃそうだ。
なんたって、ここに4泊もすれば俺のアパートの一月の家賃をオーバーするレベルである。
狭いよりは広いに越したことはないが、結果的にテーブルより奥からプラズマクラスターの機械のある当たりまでの4畳ほどのエリアしか使わなかった。
最初は無駄に畳でごろごろしてみたりしたが、テレビとコンセントと荷物と布団の場所を考えると、4畳分ぐらいのスペースしか要らなかったのである。
温泉街であるので、もちろん温泉に入った。
いくつか種類があった。

そのうちの「猿の湯」というのは、新選組の土方歳三が入ったとか書いてあったが、別の場所で説明文を読むと「入ったかもしれない」的なニュアンスだったり曖昧だったが、ともかく土方歳三ゆかりの湯であるということになっている。
04年の大河「新選組!」で土方歳三を演じたのは山本耕史であるので、その嫁であるところの堀北真希ゆかりの湯である解釈することも出来るので、なんだか非常に良い湯であった気がした。
4つか5つほどの湯があり、全部入らないと絶対に元が取れない(?)と思ったので全部入ったが、見る見るうちに風邪が良くなっていたのには驚いた。
既に露天風呂は肌寒い時期だったが、それでも風邪は悪化することがなかった。
さすが堀北真希。
食事は最高であった。
味付は濃くないが、非常においしい。
日々化学調味料てんこ盛りのラーメン等を食べている自分の舌が猛烈に反省をしていた気がする。
9月6日(日)
堀北真希の湯が効いたのか、プラズマクラスター空気清浄機が働いたのか知らないが、風邪はほぼ治癒していた。
この日は16時に会津若松駅前から高速バスに乗るまでみっちり観光である。
田舎の観光地は二次交通が貧弱だったりして不便を強いられるが(阿蘇に行った時はバスが少なすぎてえらい目にあった)、会津若松はわりとマシだった。

30分に1本の感覚で観光周遊バスが走っている。
主だった観光ルートをぐるぐる環状している。
30分に1本は少ないように感じるが、内回りと外回りが両方走っているので、わりと利便性は高い。
東山温泉も経由してくれるので、これに乗り、まず会津武家屋敷に行った。

会津藩家老西郷家の屋敷を移築・新築してできたらしい。
その次は鶴ケ城へ。
我が京都を幕末に警固した京都守護職松平容保公の御城である。

戊辰戦争でボッコボコにやられた鶴ケ城である。
もちろん戦後建築である。幕末の天守は現存していない。
とはいえ場所はそのままなので、はあここが150年前戦争になっとったんやなあと当時に思いを巡らせ、なるほど例えばこのお堀の内と外で激しい白兵戦があったんやろうなあと城外を見てみると…

そこには新たな別の"お城"がありました。
…やはり平和が一番ですね。
鶴ケ城もまあまあかっこよかったが、個人的にこの建物アツいぜ!と思ったのが、

会津若松市役所である。
バス車内から取ったので見づらいが、なかなか荘厳な建物だ。
駅前に戻って喜多方ラーメンを食べ、午後は飯盛山へ。
飯盛山はご存知白虎隊が集団自決した場所である。

山とはいうが、階段で2、3分登れば着く。

ここが白虎隊が燃える鶴ケ城(実際には城下が燃えてただけ)を見て自決した丘である。
写真ではわかりづらいが、たしかに遠くの方に鶴ケ城が見える。
印象的だったのは、いくつか興味深い石碑があったことである。
例えばこれ。

左の石碑にある紋章を見て欲しい。そう、鉄十字(アイゼルネス・クロイツ)である!
もうひとつ

なんだかよくわからなそうだが、一番上に「SPQR」と書いてある。
ローマ帝国時代からイタリアで使われてきたローマの栄光を表す4文字である。
イタリア…ドイツ…
つまり枢軸国である。
どうやら戦前、日独伊三国同盟が組まれていた頃、白虎隊のこの精神が模範的な戦士の精神であると枢軸国界隈で持て囃された時期があったと思われる。
2枚目のSPQRのほうの石碑の最後には、「FASCISTA」という文字が見て取れることからも明白だ。
現代の価値観からすれば白虎隊は「かわいそう」「何も死ぬことはないのに」という感想が出てくるが、大戦期の価値観からすればどうであったのだろうか、特に諸外国から見てどうだったのかと思うと、奥が深い。

そのあとはぐるぐるまわるやつ(名前忘れた)を500円払って見て、滝沢本陣に向かった。
旧:滝沢本陣は民家の敷地みたいなところにあってびっくりしたが、中に入ると戊辰戦争当時のままのようになっていてこちらもびっくりした。

戊辰戦争の弾痕がいたるところに残っている。
こういう観光地はちゃんと整備されており、入ってはいけないところや触ってはいけないところがきちっと明記されてあるものだが、ここはわりと自由に入れるし触れるし、えっこれでいいんかいと思った。
妙に年季の入った白虎隊の資料館みたいなところを見たあとは、七日町のほうに行き、墓参りをした。

藤田さん家のお墓である。
おれの親戚ではない。
藤田五郎、元の名を「斎藤一」という人のお墓である、とまで言えば分かるだろうか。
斎藤一は新選組主要隊士の中では、永倉新八と並んでかなり長生きした人物である。
新選組が散り散りになる中、斎藤は最後まで会津藩とともに運命をともにした。
晩年は剣道の師範をしたり、警察として西南戦争を戦ったりしたが、会津への思い入れも深かったようで、ここに葬られている。
驚いたのは、墓碑を見ると斎藤の子孫たちもここに眠っていたことだ。
平成に入ってから亡くなられた子孫の方の名が刻まれていた。
斎藤一は大正年間まで生きている。
戊辰戦争といえば我々にとっては歴史の教科書の上ことでしかないが、こうして墓碑を見ると、そう遠くない過去であったのだなあと強く感じた。
午後になるにつれてどんどん雨が強くなっていったがなんとか耐え、「会津中将」というお酒を土産に買ってバスで東京へ帰還しました。
ずっとまえから会津行きたいと思っており、ほぼ一日を観光に費やせたので、満足の行く旅ができました。
また晴れた日にでも行きたいと思います。