#老後とマンドローネ
皆さま、初めまして。めたる ぐるです。本名は山口敦と申します。めたる ぐるとは、職場でのペンネームです。今年55歳となってしまいました。四捨五入せず、切り捨てるようになりました。埼玉の朝霞市に在住しております。小職のマンドリン歴をベースに関東マンドリンのローネ事情、歴史を簡単に振り返ってみたいと思います。
父親がクラシックギターを本格的に取り組んでいたので、かなり早い時期からアルハンブラとか大聖堂とかバッハのリュート組曲とか聴いていましたが、自分は中途半端で、全然、上手にならず、中学まではエレキベースやフォークギターなどやっていました。
マ界との出会いは、木更津高校に入学後。田舎の進学校です。しかし、木高のマンクラの演奏には衝撃を受けました。高校3年の4月の定期演奏会で3年生は卒部しますが、正味2年で、メリアとか田園写景など高度な曲を音楽的に弾いていました。特に当時の3年生はギタートップがアランフェイスを演奏するなど、相当な腕前で。いい仲間にも恵まれ、本当に充実した2年間でした。ギターパートに入部。朝6時半には登校して、基礎錬。昼休みも練習。夕方も警備員さんに追い出されるまで練習。土日も練習。そりゃメリアぐらいは弾けるわけです。衝撃を受けたのは、1年生の時のNHKで放送された第40回青少年音楽祭の演奏。木高のOBが三人参加するというので放送を見ました。そうすると舞台の後方ににょきにょきと巨大なマンドリンがたくさん!!!! それがマンドローネとの運命的な出会いでした。久保田先生の指揮でマンドリニストの群れを演奏。その瞬間、私の人生変わりました。それまでは国立理系志望で、広島大学を狙っていたのですが(生物勉強したくて)、東京近郊でマンドリン部があり、しかもローネのある大学を目指すことにしたわけです。しかし、マンドリン部が面白すぎて、全く勉強しませんでした。高校3年の最後の演奏会は、オペラのアイーダから舞曲、大行進曲、グランドフィナーレを演奏しました。トランペットもいれて。二部では明治大学に進学した先輩の指導でエレキギターやシンセなどもいれ、高中正義を演奏するなど。燃え尽きて、その年の受験は全滅。マンドリン部のない名門駿台予備校に進学しました。(写真はさだまさしのジャケットをまねして久留里線という超ローカル路線までロケして撮影)
マンドリンの盛んな大学を受験し、家から通えるということで、早稲田大学マンドリン楽部(以下、WMG)に進学が決まりました。早稲田には木高のOBはいなかったのですが、ローネがあることは調査済みでした。早速、入部し、希望パートを伝えると、ローネはパートとは存在しておらず、必要な時は誰かが持ち替えて演奏するものだと言われて、ショック。そうなんです、当時の関東のマンドリン界には、ローネはあったが、ローネパートはない!という状態だったのです。それで、とりあえず、セロパートに入部し、それまで、ギター弾きだったので、一からトレモロをやって、という状況。WMGには当時、渡辺のローネが二本あり、どちらも1960年代前半の楽器。一つは甘い音色で、もう一つはテンションがあり、遠達力のある名器でしたが、握力が必要でした。バカなOBが彫刻刀でWMGと表面版に書いたので、ニックネームは彫り物。もう一本は長老と呼ばれていました。そして、黒豚というニックネームのある巨大な渡辺3号がこの年、OBの寄付金で寄贈されて3台に。この楽器は音程はいいのですが、あまり遠くに音が飛ばない楽器でしたが、昨日のWMGでも健在でした。黒豚の筆おろしは、1級上の先輩でイルボートでした。早く弾きたい!と心の中で叫んでいました。私はセロのトレモロと同時に彫り物を借りて、ローネの練習を開始しました。誰も教えてくれません。我流です。
WMGはしっかりした指導者がいて、いい先輩や仲間にも恵まれていましたが、皆様、全然練習をしないので、下手くそでした。練習場は隣でエレキギターやサックスの音が聞こえる掘っ立て小屋の練習場。調弦ができないコンマスもいました。毎日、基礎錬やっていた高校時代の方がはるかにいい音が出ていました。また、選曲に関しても、イタリアオリジナル曲は当時、顧問をなされていた赤城先生が編曲してしまい、フルート、クラリネットを加え、原型をとどめない状況に。赤城先生はベルキ好きだったので、ベルキが多く(自分はあまり好きではなかったのです)。重要なフレーズがセロからギターにいってしまい、ギター合奏だけのステージもあり。セロやローネの楽譜は全音符や四分音符のみになってしまい、正直、音楽面ではストレスがたまっていました。慶應大学でも服部正先生がお元気な時期で、一部はイタリアオリジナル曲、二部はミュージカル曲などポップスのステージ。明治はエレキギターやラテンの打楽器を入れて演歌ばっかり、中央は当時、とても上手でしたが、鈴木静一を繰り返し演奏しており、と自由度がない感じでした。
誤解のないように言いますが、私は赤城先生を大学時代の恩師と考えており、大尊敬しております。フェイスブックの写真にも亡くなる直前に撮影した写真を掲げています。社会人としてあるべき姿や編曲の意図などを理解したのは、卒業してかなり経過してからでした。先生、今度、お墓参り行きます。また、服部先生がいなければ、慶應のマンドリン部だけでなく、関東のマンドリン界の発展はなかったでしょう。ただ、お二人のやりたいことと自分の志向が異なっていただけなのです。
関東は、何よりも低音を表に出さない演奏が多いのです。慶應の演奏を聴くと内部進学の経験豊かな上手なマンドリン、ドラ奏者が多数いて、服部先生の棒でキラキラ鳴っているのですが、セロは控えめに出すように指導され。まして、当時は専属のローネ奏者もおらず。あろうことかエレキベースもよく使用されていました。おそらく、コントラバスの音程が良くない奏者の時はエレベを使ったのだと思います。マンドリンもエレガントに弾いていました。当時は学生マンドリン界で横綱だったと思います。難しいクラシックの難曲にもチャレンジできたと思いますが、路線が違いました。
関西の音源が手に入り、特に同志社のサウンドにびっくりしました。同志社ファンの先輩がいて、ずっと録音していたのです。ダビングを重ねていて半音高くなっていましたが(笑)、すごく、中低音が厚い。ルスラントリュドミラとかローネやセロがびしびし音鳴らしていて。自分は中低音が厚い演奏を実現できるのは、ジュネス、青少年音楽祭しかありませんでした。
2年生になって、ようやくWMG内でローネでの演奏参加が認められましたが、その年の青少年音楽祭は、なんと、ローネ抜きのグランドシャコンヌになってしまい、ギターで念願の初出演を果たすことになります。初めて、本格的に音楽を学んだプロの指揮者の下で演奏ができたうえ、意識の高い演奏者ばかり。
2年生の秋にJMJコンサートがあり、この時、降り番もありましたが、初めて、ローネで参加しました。バッハのブランデンブルグ協奏曲3番、夢の魅惑、シェーンベルグの浄夜という、意欲的なプログラム。バッハでは、メトロノームで初めてローネの音階練習をし、浄夜で、この世の調整全てを読み込み。この後は、いくつシャープが出てきても、フラットが出てきてもびびらなくなりました。この時の指揮者の小出先生と中核メンバーで現在、所属しているメトロポリタンマンドリンオーケストラが結成されていきます。
そして、WMG、ジュネスで念願のローネを演奏するようになり、3年生ではジュネス委員のマンドリン常務となり、選曲から団のマネジメントを管理する立場にありました。大学の加盟団体と個人会員で成り立っています。全員のオーディションにも参加し、参加メンバーを決めていくわけです。しかし、前述のようにローネは専門家が少ないため、メンバー集めに苦労します。当時、MYローネ(野口1号機)を有していた静岡大学のNさんのみです。早稲田の黒豚、彫り物、長老の渡辺3台。慶應のヴィナッチャ(しかし、ネックなど破損を繰り返し、サイボーグ化)、慶應高校の落合、独協の渡辺か大野か?のうち1本。上智の嶋田、明治高校の大野などを調達していました。練習開始の初期局面では、全部の楽器が揃わず、皆で交代で合奏に参加していました。早稲田から彫り物と黒豚と長老の3台を一度に、一人で渋谷のNHKまで持っていったこともあります。原宿に竹の子族が集まっているなかを奇妙なものを担いだお兄さんの図はきっとシュールだったと思います。黒豚はハードケースがでかく、持ち運びが大変で、いつも車で練習に来るWMGのOBの方に預けていました。
3年生ではローネ9人をそろえましたが、ドラやマンドリンの人たちを急造ローネ弾きとし、春から鍛えて、本番という感じ。正味、音が出ているの半分ぐらいでしたが、村祭りと田園写景では私の陰謀もあり、コントラバス降り番でローネのみの演奏をジュネスで実現しました。昨年、降り番にされたのの倍返しです。権力を乱用しました(笑)。この時の演奏(全体の)は自分史トップ3に入る内容だったと思います。コンマスの佐藤君はこの時から今に至るまでの関係になりました。写真はこの時の全景と小職がひく彫り物です。素晴らしい楽器でした。隣が黒豚ですね。
4年生でも常務を続投しました。この頃からジュネス人気、大学のマンドリン活動が低迷しつつあり、セロ、ローネ、コントラバスは定員割れが常態化します。セロが少なかったので、この年は初めてセロで初めて青少年音楽祭に参加しました(最初で最後)。この時、各大学のトップや指揮者などで1時募集で参加表明をしていなかったメンバーを説得して、ローネで参加してもらいました。このメンバーの方々に自分のWMG最後の演奏会に出てもらい、ローネを6台揃えることに成功しました。WMGのもう一人の編曲者である伊藤先生に、ローネが厚くなる編曲を依頼し、念願の中低音が厚い音をおひざ元でも実現しました。3年の終わりから上智、大妻、慶應、社会人団体の演奏会にローネ奏者で賛助として呼ばれ、1カ月に一度は本番のある充実した1年でした。
そして、社会人。中堅どころの証券会社に就職し、土日はマンドリンという活動ですが、青少年音楽祭は30歳までしか参加できません。とうとう30歳になってしまいました。この間、ジュネスの合唱で知り合った家内と結婚し、夫婦で最後の練習に参加しました。自分が4年生の時に振ってもらった現田先生の再登場で華燭の祭典。最後の演奏会は、ローネが全然集まらず、結局、3名での参加でした。この時は、明治高校の大野を借りて、出演しました。しぶい音色、豊かな音量。この楽器は今、どうしているのでしょう?華燭の2楽章のソロも弾き、卒業となりました。写真はその楽器です。
ジュネス卒業後、知人の紹介で、野口のローネを入手することになりました。1991年製。彫り物ほど深くならないけど、いつまでの学校の楽器を借りているわけでもなく、ここで彫り物を変換し、自分のローネでステージに乗ることになりました(自分以降、専属ローネ奏者はWMGではあらわれず)。アメデオなどいくつかの団体に賛助で呼ばれましたが、実は、仕事が中途半端な会社で働いていて、家族を養うことができるか?という問題にぶちあたり、ここで英語もしゃべれないのに外資系の金融機関に転職することを決意しました。なので、土日は朝から夜まで英語漬け。折角購入したローネも知人や他団体に貸して、全く、マンドリンから遠ざかってしまいました。そして、英国系の外資系の会社に入り、始発終電の毎日。土日も働き、海外出張バリバリ入り、仕事の成果も出てきてと。。会社をいくつか移り、忙しい毎日を送るようになり、32歳から40代後半までは、マンドリンから離れていました(たまにWMGの記念演奏会とか出ていましたが)。
しかし、50歳になり、1ノッチ、仕事量を落とそうと決意し、忙しさが80%ぐらいの日系企業に転職しました。このため、再びマ界の方々の接触が増えるのですが、既に財政難でジュネスはなくなっており、ローネ情報がない。WMGでは彫り物と長老が壊れてそのまま放置されているという。慶應では、ローネは健在だが、奏者はおらず、常にOBがどこかで借りて弾いている感じ。コントラバスも専属がおらず、OBの賛助だったりとか。上智、明治のローネも消息不明。独協も消息不明という状況。一方、個人持ちのローネ弾きが急増していることも判明。
そして、びっくりしたのが、ギターで参加しているメトロポリタンマンドリンオーケストラで出会った加藤さんの地鳴りのようなローネの響き。聞けば、あの同志社出身で、ローネ専属のプレイヤー、しかもMYヴィナ!
しかし、マ界復帰後、ローネで参加できる団体がなく、どこもギター。ようやく、2017年に高校のマンドリンの後輩の紹介で、川越マンドリン部の演奏会の賛助で参加することに。WMGに貸していた楽器を返却してもらい、久しぶりに弾いてみたら、握力はなく、抑えられず、トレモロできず、のようなひどい状況。自分の野口は、テンション弱く、ネック細いので、弾きやすいはずなのですが、全然音が出ないまま本番の日を迎えるありさま。メトでも急遽、直前にローネ奏者がいないので、フランクのニ短調シンフォニーをローネで弾いたのですが、全くだめだめで。少し落ち込んだまま年越ししました。
2018年が転機で、川越マンドリンの賛助に加藤さんも参加し、初めて共演できることになり。それまでは、一度も、奏法、構え、姿勢など教えてもらったことがなかったので、いろいろ教えてもらい とても新鮮でした。一番のサプライズは切れた弦しばること!関東では決してみることのない。並んで弾くことによって、音の出し方、タイミングなど多くを学びました。関東では音は抑えろと習っているので、自分ならダブルで入れてしまうようなところを大きく単打で入れるとか、でもあとで録音聞いてみると、すごく効果的で。サプライズの連続です。
2019年に、所属団体のオルフェイスでローネが弾けることになり、ようやく公式復帰。加藤さんの紹介で、関東にいる低音の方々も紹介してもらい(しかし、いつもベロベロに酔ってから参加しているので、何も記憶がなく、申し訳ありません)、忘れなれないのが、この管理人さんも参加したコンコルディアの演奏会(大ホール)と自分のオルフェイス(小ホール)が同日開催となり(葛飾シンフォニーヒルズ)、コンコルディア4台、オルフェ2台のローネをリハの間に並べるという快挙も。しかし、その夜の打ち上げは何もベロベロで覚えていないので、皆様にご迷惑をかけました(本当に何も覚ええておりませぬ)。老後はマンドローネと叫んでいたとのことです(笑)
この年は、直後に浦和ギターマンドリンにも参加しましたが、オケ100名以上に2名のローネでは無力感がただよいました。そこに加藤さんからアメデオからローネを多数集めて、ラベルの左手のコンチェルトを演奏するので終結せよとの募集が。ジュネス以来の多数のローネ! 無理に弾かなくてもいいし、パートとして機能するのではないか!ということで、喜んで参加。小川先生のピアノもすごかったですが、何せ、意識の高い8名が揃っての演奏(前述の通りジュネスは頭数はいましたが、専門家が少なかった)。すごいうねりになっていて、終演するのが寂しい気持ちになりました。自分もようやく調子が上がってきて、楽しめました。やはり、多くの人数で、余裕がある演奏をすると、合奏が素晴らしい。高校の時から目指していた憧れのサウンドが今ここに。写真はアメデオ8人のローネ戦士
そして、台風で延期になった川越マンドリンの2月24日の演奏会。ぎりぎり開催できましたが、客席は全員マスクでもうコロナの猛威の足跡がひたひたと。この演奏会も加藤さんと共演できたのですが、噂のライオンヘッドを初めて見ることができて、笑いが止まらない自分
そして、この演奏会を最後に、今年の予定は全てキャンセル。秋から練習再開したのですが、発症者が出てしまい、全員が濃厚接触者になるという事案が発生してしまいました。フェイスシールドだけではだめなんです。このウィルスの厄介なのは、濃厚接触者になってしまうと、職場のメンバーも強制的に自宅待機となり、消毒もされ、多くの方々に迷惑をかけてします。幸いにして陰性でした。参加者のお子様が人生を決める試験を受けられなくなる、高齢のご両親がいる、などで、結局、年内は活動停止になってしまいました。早く、この惨状が去ってもらうことを祈っています。
コロナはありますが、活動を再開して、新たな友人も増えて、充実しています。コロナ後は、多くの団体に参加して、その輪を増やしていきたいと思っています。ローネが上手な方は、気が利く人が多く、文字通り社会の土台になっている人が多いと思います。私見ですが。他人を思いやれる方は良く他のパートを聞いて、自分の役割を全うするからだと思います。これからもこの輪を大事にして、楽しんでいきたいと思います。
写真は今年最後になってしまった川越での本番にて