月曜日の図書館25 あじさい
職場の傘置き場に傘を置くときは、取られることを覚悟すること。高くてお気に入りの傘は、持ってこないか、各自のロッカーにしまうこと。だから傘置き場に置いてあるのは、たいていどこにでも売っているビニール傘だ。以前、穴の開いたビニール傘の捨て時がわからず、そのまま使い続けているうちに取られてしまった。取った相手はさぞがっかりしたことだろう。その傘には、油性ペンで落書きまでしていた。開いた穴をピストルで撃った跡に見立て、そのとなりには弾が命中して脳みそが飛び出している人間を描いていた。
誰が取っているのかは知らない。公園で暮らしている人たちだ、とする説もあるが、全然別の種族かもしれない。妖精と考えるのが平和かもしれない。
天気予報を見ないので、傘を持っていくべきかどうかは自分の勘と運に頼っている。朝、出かけるときに晴れていたら持たない。梅雨でも降ってなければなるべく身軽でいたい。午後からたいてい天気が崩れて後悔するのだが、たまに家にたどり着くまで持ちこたえるときもあって、それがうれしいからやめられない。
という話をN本さんにしたら、自分はビニール傘の他に折りたたみ傘も雨合羽も携帯している、と言う。クロックスもロッカーに入れてあるらしい。あじさいの色は、土の成分に由来するのだ、と教えてくれる。この辺りに生えているのは、白にうっすら青や、紫がのっかったような色だ。
昼休み、湿気でうるおっている苔に見とれながら歩いていて、向こうから歩いてくるK川さんにまったく気づかない。「いいんだよ、休憩中なんだから、自分の見たいものを見たらいいの」と言ってくすくす笑う。
普段は枯れたような木の表皮も、水を含んだ苔があざやかな緑に変わり、いっせいに生き返って見える。触るとしっとりして気持ちがいい。スマートフォンを近づけて激写していたら水たまりに足をつっこんでしまった。
クロックス貸すよ、とにやにやしながらN本さんが言うので断固拒否する。クロックスに手を染めるくらいなら小さい不幸は背負って立つと決めている。
見たいものだけを見る人生は過酷である。
わたしは小さいころから人間を識別するのが苦手で、学校に通うようになってからはみんな同じ制服を着ているので、ますます見分けがつかなくなって混乱した。友だちと廊下ですれ違ったのに気がつかず、無視したと勘違いされてずいぶん関係がこじれたこともある。みんな似たような髪型、似たような体型、気配。
きっとわがままなのだろう。ものすごく見ていたいわけでもないもののために、努力して時間を奪われるのが嫌なのだ。それが証拠に、苔の見分けはすぐにつく。何度も図鑑を見て、講座にも通った結果、葉の形とか、色とか、生えている場所で何となく種類が特定できるようになった。
雨が降ったら走って帰ればいいし、人違いだったら謝ればいい。自分が何を見たくて、何を見なくてもいいのか、小さい脳みその使い方をよく考えて、前者に全力を注ぎたい。
窓口でおじいさんから調べものの相談を受けて、本の用意をして話しかけたら全然別の似たおじいさんだった。いきなり石垣の作り方はこの本に載ってますと話しかけられて、おじいさんは目を白黒させた。ごめんなさい、とわたしは言った。
落ちたマスクがあっちでもこっちでも雨に打たれている。
書庫の暗い箇所にセンサーライトを取り付けに行ったS村さんが、近づいても光らない、と悲しそうに言う。S村さんはとてもやせていて生命反応が弱いから感知してもらえないんじゃないか、わたしもときどき気配を感じない、と心の中で思って、そのまま口にも出した。
数年前までS村さんはポケットに鈴を入れていて、近づいてくる度にちりんちりんと鳴るので、間違えようがなくて非常にありがたかったのに、いつからかやめてしまった。
自分はここにいるよ、と主張しなくても大丈夫になったのかもしれない。
結局、靴は最後まで乾かず、雨もいっこうに止まない。わたしはふやけた足で帰り道を歩く。借りた折りたたみ傘を差して歩く。この町のどこかの誰かの傘の上では、今日も人間が頭を撃たれてびっくりしている。
苔を観察するのも好きだけれど、あじさいの色を教えてくれたり、見たいものを見たらいいと言ってくれたり、気配を感じないと言われても怒らない人たちのことにも、ちょびっとくらいは脳みそを分けてもいいかもしれない、と思っている。