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あなたがいない世界

弟が姉を、姉が弟を語る。
それはあくまで推測で、事実かどうかはわからない。

〇 海辺
姉の声「あなたは言った。何もない、と」
弟の声「何を言っているの、海があるじゃない。あなたは蔑み、罵った」
姉の声「そうじゃない。大きな波がみんな流してしまうんだ。あなたは涙を流し、ひとり怯えた」
弟の声「あなたは信じなかった。誰も信じなかった」
姉の声「あなたは口を閉ざし、言葉を失った。…30年後に、あなたの予言は現実となった」

〇 弟の部屋
窓辺で気だるげに外を眺めている弟。
姉の声「生きてる? 携帯もメールも知らないから、生きているのか死んでいるのかどうか、さっぱりわからない。無事ならそれでいいけど…」

〇 姉の部屋
鏡に映る顔。手入れをしている。
弟の声「あなたはいまどんな顔になっているのだろう。長い間会っていないから、街でばったり出くわしても、お互い気づかないだろう」

弟の声「好きな人いる?きっと年上だろうね。あなたを受け止められるのはそういう人だ。きっと奥さんも子供もいる人だろう。そしてあなたはある日突然すべてを失うんだ」

〇 弟の部屋
洗い物をしている。
姉の声「あなたはきっといまもひとりね。誰かと一緒にいるとは思えない。あなたは誰からも愛されず、誰にも心を開くことはない。惨めな人」

〇 姉の部屋
乱雑な部屋。酒を呑む姉。
弟の声「あなたは寂しいくせに、誰も愛さず、愛される術を知らない」

弟の声「あなたはずっと自分の人生を生きたいと願っている。でもどうやっていいのかわからず途方に暮れている。滑稽だね」

〇 弟の部屋
行儀悪く食べている弟。
姉の声「いまだから言えるけど、あなたのこと、けっきょく好きになれなかった。あなただって、わたしのこと苦手だったでしょ? 好かれてないってわかってた」

姉の声「お互い離れて、好きに暮らしていけばいい。少しは冷静になれるから。近くにいると、優しくなれない」

〇 姉の部屋
寝ている女。
弟の声「あなたは眠る。外の世界で何が起きようと、あなたは何も見ない。何も聞かない。過ぎ去るのをただじっと待っている。あなたはいまだにあの人に支配されている。どれほどの月日が経っていても」

〇 弟の部屋
うたた寝している弟。浅い眠り。
姉の声「情けない子と、罵ることであの人は幼いあなたを全否定した。そして何年もかけて刷り込んだ。いま思うとあれは暴力だった。人格を破壊するほどの。あなたを産み、苦しめたあの人はもういない。あなたは解き放たれた。…でも、幸せじゃないわね。きっと」

〇 古傷
姉の声「あなたの疵をわたしが理解することは永遠にない。きっと」

〇 海辺
姉の声「近所の海に、昔よく行った。もう行くことはないだろう。本当にあったことなのかどうか、いまとなってはわからない。…あの時、あなたは7歳だった。あなたは叫んだ。なにもない、と」
弟の声「何を言っているの、海があるじゃない、あなたは蔑み、罵った」
姉の声「そうじゃない。大きな波がみんな流してしまうんだ。街を、たくさんの人を。あなたは涙を流し、ひとり怯えた」
弟の声「あなたは信じなかった。誰も信じなかった」
姉の声「あなたは口を閉ざし、言葉を失った。…30年後に、あなたの予言は現実となった」

〇 弟の部屋
洗濯物を取り込んでいる。
片づけをしていて、ふと海岸で拾った漂流物を見つける。30年間忘れていたもの。容赦なくゴミ箱に捨てる。
姉の声「あなたは化け物だった。理解を超えていた。あなたは突然、弟であることを止めてしまった。あなたに見えて、わたしには見えなかった映像。それは途方もない恐怖をあなたに与えた。あなたはただ見るだけで、この先起こる未来を変える力は無かった。それであなたは絶望し、7歳で老けた。あなたは力を失い、あの人の死も、父の死も見なかった。コロナが世界に広まることさえわからなかった。そもそもそんな力は、はじめから無かったのだ。夢でも見たのだ」

〇 姉の部屋
猫と戯れる姉。
弟の声「あなたはいつも決めつける。傲慢な人。でもあなたは苦しんでいる。同じ血が流れ、同じように育ったのに、どうして自分には力が何も無いのかと。それであなたは僕を嫌い、自分を呪い、あの人たちを憎んだ。そこから脱け出さない限り、あなたは幸せにはなれない。僕と比べることに何の意味もないのだと教えてあげたいが、言えばきっと怒るだろう。あなたは僕から目を逸らし、関わり合いになることを拒絶した。そして自分の人生から僕を追い出した」

窓を開け、外を眺める姉。
弟の声「あなたはいつか世界と折り合いをつけるのだろうか。それとも変わることなく、自分を貫き通すのだろうか。どちらにせよ、しぶとく生き抜くのだろう」

〇 弟の部屋
窓を開け、外を眺める。
姉の声「あなたがいない世界は、こんなにも彩りに溢れている。あなたの眼には何色に映っているのだろう」

窓から見える景色。
姉の声「あなたは役目が終わったことを知っている。それでもまったく気にしていない。もうすでに意識を別の場所に飛ばしている。わたしがあなたを理解することは永遠にないだろう」

誰もいない窓辺。
弟の声「それでも僕らは生きていく。あなたがいない世界を。良き人であるように。飄々と、気ままに、くだらないこだわりを捨て去って」


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