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予測…してません!

先ごろの創作大賞の期間、感想文をいくつも書くことができた。それは、いくつも読むことができたからだし、さらに誰かに伝えたい、ほかの人にも読んでもらいたい、と思えたからでもある。

いつも仲良くしている方だから、応援の意味も込めて「感想文を書くために」読んだ作品もあるし、タイトルに惹かれて読み始めて「感想文を書きたくなった」作品もあった。

感想文は、湧き上がるものを誰かに伝えるために書くものではないのか、と言う意見もあるだろう。確かにそうだと思うけれど、全てではないとも思う。

小学生の夏休みの宿題然り、国語科目のレポート然り、湧き上がってきて書かずにおれない作品に出会えることは何度あるだろう。

感想文を書くのが苦手で…、と僕自身も思っている。だから、書く時にはとても慎重になるし、まっさらでいたいと思う。アウトプットを前提に読書をすると知識の解像度が上がるとは、よく聴く話で、感想文を書くために読むこともまた、物語を自分自身に近づけることができるスイッチのようなものだと思う。

僕は読むのが速くないし、内容把握も曖昧だと思う。だけれど、感想文を書くことは嫌いではない。苦手だけれど(再掲)。

最近、自分の読み方にちょっとした特徴があるような気がして、考えている。きっかけになったのは、自分自身のこんな発言だった。

「私、性格が悪いんで、誤字とか脱字とか、すぐ見つけちゃうんですよね」

他人の書いた文章の“粗”がよく見えてしまう、そんな悪い性格をしているのだ。因みに、自分自身の文章では誤字脱字を見つけられない。不思議である。

感想を書くにあたって、何度も読むことになるのだけれど、一度見つけた誤字は、だいたいの場所を覚えていて、読み返したときにも「あ、また会いましたね」と、意地悪な挨拶をしてしまう。

昨年のこと、完結する前に読み始めた、ある方の応募作があった。どんな作品でも、たいてい誤字がある。その方は丁寧な文章を書かれるので、普段は誤字など見つからない。しかし、長い物語には、何度読み返しても隠れてしまう誤字があるものだ。

読み進めていくうちに、いくつか誤字を通り過ぎた。数日かけて完結し、通読を終えた。感想を書こうと思い立ち、また読み直す。

すると、誤字だったところがきちんと修正されていたり、表現が分かりやすくなっていたり、つっかえたはずの場所を、スムーズに通り過ぎていることに気がついた。つまり、修正されていた。それは、3回目に読み返したときにも、別のところで起きていた。

と、これだけの修正に気がつく自分にもちょっと引くが、そこに僕なりの読み方のクセがあるのだと思った。

僕は、初見の物語を読み進めるに当たって「予測」をしていない。その先の展開を予測せずに、目の前のことだけに集中しているのだ。

それは、物語の展開という流れの予測だけでなく、このセリフはこう言うだろうとか、さっきと似ている描写だから飛ばしていいか、と思わないということだ。(その割に、難しくて分からない部分はポーンと読み飛ばす)

さらに、物語を読みながら、書き手や書き手のほかの作品のことを考えたことが殆どない。そういう読み方をすると、感想文は「その作品だけ」について書くことになるし、初めましての書き手の作品でも、感想を書くことができるのだと思う。

これはいい悪いを判断したいのではなく、僕の読み方がそうである、という紹介だ。予測をせずに読み進めるから、誤字にしっかりつまづいてしまうのだ。

一般的に人間の脳では、予測や補完しながら文章を読むため、正確に書かれていなくてもある程度読めてしまうらしい。

今年は、感想文を何本も書いてから、自分の作品を書くことになったが、実は、読んだ作品のことはあまり気にならなかった。その場限りで読んで楽しんでいるのだと思うし、感想を書くことで、読んだ作品が昇華されるのかもしれない。

書くための読み方として、時間はかかるが「予測しない」は意外と有効なんじゃないかと思う。




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