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旧約聖書を声に出して読む

会読は続いている。
講座に参加している講師陣と旧約聖書を読んでいる。

少し前まで早朝の会読に参加していたが、一日のスケジュールを考えると私の場合は夜の会読の方が上手くいくように思い、今では主に夜の会読に顔を出している。

皆が皆毎回同じように集まるのではなく、参加できる人が参加する。
昨日も会ったねという人もいれば久しぶりの人もおり、それが面白い。
私も会読に参加できない事があるが、休んだ分は穴が開く。
そこは一人で読み進めなければならない。
読まずとも参加はできるが、次に参加した際に分からなくなってしまう。
そうではない部分もあるが、旧約聖書は物語風に綴られているからだ。

先週までは出エジプト記を読み、今は創世記を読み進めている。

神とは一体なんだろうと疑問が湧いた。
神様は目には見えないけれどそこにいて、私達を見守ってくれている存在。
漠然とそのように思っていたが、旧約聖書においては違うようだ。

神も民も現代とは話す事・なす事びっくりするような事が多く、だから十戒が生まれたのだと理解できるが、現代当たり前に共通理解されていると思われる事が、戒めにしないと守られなかった事に驚く。

そうか、契約だからかと、読んでいくうちに気づいたが、神様からの言葉には「こうしなければならない」「こうであってはならない」が非常に多い。
特に出エジプト記の祭儀についてはとても細かく指示がなされている。

そして純金や金の糸を使用したり細工を施したりと、とてもきらびやかである。
そういえば仏具にも金が多く用いられているし、イスラム教のモスクもとても美しかった。
美しく煌びやかな方が、尊い存在であると崇めやすいのかもしれない。

朝日が昇り始め、薄桃色、薄橙に空が染まり始めるのを目にすると手を合わせたくなり、富士山を見ると拝みたくなる、夜の焚き火の炎を見ていると神々しいものを感じる。
美しいものをみると、そこに何かを感じる。
そういうことなのだろか。

私は特定の宗教をもたない。
実家には仏壇があり、新年には除夜の鐘をつき、神社にお参りにも行けばクリスマスにはご馳走を食べる。
そんな私が旧約聖書を読んでいるとは、不思議なことだ。

もうすぐ、新約聖書にうつる。
いよいよキリスト誕生だ。


*奴隷たちは神、ヤハウエの存在を知っていただろうか。
イスラエルの子らの気持ちを一つにしてエジプトから脱出する。
思い一つにして移動するためにはヤハウエの存在(頭の中に?心の中に?)はとても重要であると思われるが、どうであったのだろか。
モーセが神、ヤハウエの言葉を皆に伝えていたのだから、ある程度の民達は知っているのだろうけれど、奴隷たちは主人の言うようにするのであろうから、ヤハウエの存在を知っていても知っていなくても大きな問題にならなかったのではないかとも思うが、どうであったのだろう。
その時代の様子を想像するのは面白い。



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