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早朝の会読は続く 〜私の今が未来の一部となる〜

毎早朝、音読指導者数名で論語を会読している。
一人で読むのも良いが、一人ではその広がりに限界があるので、数名で会読する時間が持てるのは貴重だ。

岩波文庫の金谷治訳注と岩波現代文庫の宮崎市定訳の二冊を使用しているが、訳し方の違いに「ほほー」と思う事が度々あった。

更にこの訳を読む私達一人一人が異なるバックグラウンドを持ち、それを通して一つの文を読むのだから、解釈や意見は広がったりまとまったりし、その意見交換が面白く、また学びとなっている。

巻第一の学而第一と為政第二を読み終わった。
10分の1を読み終えたところだ。

為政第二の十三で、孔子は、まずは行動する、言葉はその後にと言っている。
山本五十六の「やってみせ、言って聞かせてさせてみて、誉めてやらねば人は動かじ」を思い出した。
この言葉の根底にも孔子の考えがあったと、綿々とその教えが続いているのを知った。

子どもは親の言った事では無く、やっている事を真似る。
赤ん坊は親が笑うのを見て表情を真似、親や兄弟が立ち、歩くのを見ているから立ち上がろうとし、歩こうとする。
本能として、人は先人を真似るのだ。

我が子が言葉を話すようになると、恥ずかしながら私が五常を逸した言動をした時などは、教えたつもりはないのにズバッと指摘され、グーの音も出ない事があった。
私の日常の中にそのような振る舞いや言動があり、それを見て学んでいるのか、それとも、子どもというものは真理や本質といったものを持って生まれてくるのだろうか。

孔子は言葉を変え、繰り返し弟子達に伝えているようだ。
一言で伝えらえる事もあるだろうが、一言では伝えきれない事もある。
そういったものを、時を変え、言葉を変え伝えている。
相手の力量に合わせて言葉を選び伝えているようにも見える。

一つの方面から光を当てた場合、光の当たらない場所がどうなっているのかは分からないし、光の当たらない場所がある事に気が付かないかもしれない。
上から、下から、横から、斜めから、色々な角度からそれを見て初めて、それが何なのかが、何と無く分かるのかもしれない。
それも創造にしか過ぎずないかもしれない。
一度に全てを見る事が出来ないように、一度に全てを知る事は難しい。

何かを知ろうとした時、色々な手段を持って多角的に知る努力をしてみると、広くその事について知る事が出来そうだ。

論語を読み、なるほどそうだなと思う事が多くある所を見るにつけ、今の私達がそうであるように、子ども達は私達の姿を見て、望むと望まないとに関わらず、知らず知らずのうちにその観念を吸収し自分のものとしていくと分かる。

私が何を大事にし、どのように考え生きているのか、それが子ども達を通して未来の一部となる。
観念は引き継がれている。
気負うことも無いけれど、今更とも思わず、学ぶ事を楽しみながら、先を行く人として、より良く生きようと思う。



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