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【制作日誌 #03】 会いたい人には、いつか会える。

2020年7月22日(水)

重い腰を上げて、ここ最近はHANAICHIのHPをコツコツと改造している。

https://hanaichi871jpn.wixsite.com/website

もはや「アナログな人間なんで・・」とか通用しない世代に生まれたのに、機械音痴な私がパソコンと格闘していると、信じられないスピードで1日が終わる。今日1日パソコンしか見てなかった・・という事実に愕然とする。

基本外に出て、足を動かすことをアクションだと認識している私にとっては、コロナの日々は「その場から動かない」という修行である。

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昨日の夜、ふと思い立ち、2年前にお会いしたアーティストの方の参加しているワヤン(インドネシア、ジャワやバリの影絵芝居)のプロジェクトのホームページを調べ、映像やその方の作品を色々見させてもらっているうちに、いてもたってもいられず、連絡をしてしまった。(美佳さん、ずっとまたお会いしたいな、と思い続けていた・・・ようやく、ご連絡できるところまで来た・・!ここまでの道のり、長かったなぁ・・・涙)

ちょうど2年前、木ノ下歌舞伎の木ノ下さんの「古典を現代化する」ということのために木ノ下さんが普段何を思い、どんなことをやっているのかを紐解いてくれる(つまりは企業秘密公開である)講座にひょんなことから参加させてもらえることになり、その課題で私は、「三人吉三」の演出プランについて1ヶ月これでもかというぐらい三人吉三を研究し、こともあろうか「三人吉三」を上演した木ノ下さんと邦生さん(演出家、木ノ下歌舞伎で数々の作品を木ノ下さんと作っている)の前でプレゼンをする、というなんとも無謀なことをやらかしたのだった。

その当時、私は、演出部などの形で現場に出たこともない、ましてや演出を実際に考えてみたこともなかった。俳優として舞台に参加してきたことはあれど、長い旅や、病などでしばらく演劇から離れ、それでも現場を諦めきれず、ようやく表現の世界に片足を踏み入れ直したような、そんな時期だった。

それに、本来この講座は「団体や個人として、ある程度実績がある」人たちのクローズドな講座だったので、実績のない私が応募できる資格があるはずもなく、

「それでも、いつか参加してみたい・・・三人吉三、絶対やりたい・・・とりあえず、こんな奴がいるんだということだけ、覚えといてもらいたい・・・!」

の一心で送った渾身のメールが、企画者だったプロデューサー(KUNIO)の小林みほさんに届き、「そんな熱意があるなら」と少人数だったこともあり、参加させてもらえることになったのだった。

ちなみに、みほさんとはその年の「演じるシニア2018」という京都芸術劇場の作品で、1月から京都でお会いしていたので、覚えていただいていた。(ちなみにこの作品の演出は、邦生さん。)

http://kyoto-artbox.jp/event/36692/

2017年、大学を卒業し、お金を貯めて、一年旅をして帰ってきて、病になり、ほとんど人に会えない状態の時、1人で様々な演劇作品を見に行った。本をたくさん読んだ。そのなか、出会ったのが「木ノ下歌舞伎」だった。木ノ下歌舞伎が「三人吉三」をやっていたことも知った。

日本各地の地歌舞伎をめぐる旅に出る前に、私は串田さんのコクーン歌舞伎「三人吉三」を見て、衝撃を受けていた。

https://www.shochiku.co.jp/cinemakabuki/lineup/29/

私もいつか、自分なりの「三人吉三」をやってみたい。

なぜか知らないが、私は「三人吉三」という世界に、ものすごく魅了されていた。

しかしながら、「歌舞伎」という世界は閉ざされたものの世界である。

そもそも、古典、しかも歌舞伎の戯曲を、歌舞伎界じゃない人ができるものじゃないのか・・・という壁にぶつかり、いや、でも天と地がひっくり返るようなことがいつかあるかもしれない・・・と思っていたら

天と地をひっくり返していた人がそこにいたのであった。(木ノ下さんは、本当にすごい。)

実際、木ノ下歌舞伎は旗揚げから何年かは、いわゆるお堅い歌舞伎ファンからいわれのないバッシングや評価を受け、「相当大変だったよ」と言っていた。

でも、次第に口コミで広がり、5時間を超える上演などをするのに、チケットは完売するまでになった。

「こんなことをしていた人たちがいたのか・・・」

木ノ下歌舞伎という団体があること、現代劇の俳優たちがそのお芝居を立ち上げていること、その事実は、当時の私に、たくさんの勇気をくれた。

「とりあえず、木ノ下さんに会いに行きたい、なんとかしてお話を聞きたい・・・!」

その一心で、木ノ下歌舞伎に手紙を書き、木ノ下歌舞伎で演出をやっていた邦生さんの京都のプロジェクト(先述)に応募をし、そのプロジェクト参加が決まり(実は京都までオーディションに行けないと断念しかけたが、その日猛烈な台風が関西直撃で延期、後日たまたま大阪にいるタイミングで京都に向かい、受けられるというミラクルが起きた。)なんやかやあって、初めて木ノ下歌舞伎を見に行った会場で邦生さんに挨拶したら、木ノ下さんと制作の本郷さんとお話しでき、あの長い手紙を送ってきた子や!!となる。

そういえば、コクーン歌舞伎で「三人吉三」をやった演出家の串田和美さんにも、その前の年に長い手紙を書き、なんと串田さん本人からメールが返ってきて、松本まで会いに行き、まつもと市民芸術館の「空中キャバレー」でお話ししたのだった。「いつか、一緒にやりたいね。」と言っていただいたのが、本当に嬉しかった。やはり、芝居がやりたい、この世界に戻りたい、そう思えた松本滞在だった。


そう考えると、

会いたい人には、(行動し続けて、アクションし続ければ、)会える。

というのは、私の持論である。

やれば、できる。

きっと、届く。

ま、それでも、返事が来ないことだってある。

届かなかった人には、おそらく、縁がなかったんだろう。しょうがない、とおもって、ちょっと悲しくなるが、そのうち立ち上がり、また私は歩きはじめる。

それでも、大概届く。ほんっとうに会いたい、心から届けたい!という熱量は、届く。そう思っているし、その力を信じているから表現の世界にいるんじゃないか。

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すごく話は膨らみすぎたが、でも、この「届ける」というアクション

最近忘れてたな。

会いたい人には、いつか、会える。

まだ会いたい人がたくさんいる。

だから、私は走って行かなきゃ。

忘れるなよ、私。

諦めるなよ、私。

あの頃の私は、めいっぱいジタバタしてたじゃん、今だってそうじゃん。

生きてる限り、ジタバタしてやろうよ。

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結局、私の「三人吉三」のプレゼンは、それはもう、拙いものだった。全部の構成を考えるには無理すぎたので、「三人吉三」の終盤の演出に絞り、台本を補綴し、演出を考えた。

(当然だ、木ノ下さんは上演作品の台本を補綴するのに3年ぐらいの時間を要し、資料をよみまくり、やっと上演台本ができあがるわけで、たった1ヶ月のちんまりとした時間でそんなものができるわけもあらず。)

それでも、その1ヶ月、三人吉三の台本を読みまくり、歌舞伎座のすぐ近くにある歌舞伎専門の古本屋に通い詰め、古本屋のおじちゃんに色々教えてもらい、国立劇場の資料室に行ってものすごい古い歌舞伎上演の映像を丸一日見せてもらい、とにかく歌舞伎「三人吉三」漬けだった。

プレゼン当日、まさかの邦生さん(三人吉三を演出した人)も来ていて、もうそれは恥を晒すようなものだったのだが、

木ノ下さんに、「菊っちゃんは、歌舞伎の三人吉三でも、コクーン歌舞伎の三人吉三でも、木ノ下歌舞伎の三人吉三でも納得しないものがあるのね?」と聞かれて

「はい、どうしても、終わり方に納得できないんです。」とそれはハッキリと答えてしまった。(そこにその演出家いるのに。)

「どうしても、あの三人の吉三の終わり方を、違うように見せてみたい。」

拙い私の喋りを、木ノ下さんは丁寧に拾って、一緒にプレゼンを進めてくれた。

「菊っちゃんのなかには、もう三人がいるんだよね。話しかけてくるでしょ。」と木ノ下さんに言われた。

「います、いるんです。」

「そうなんだよねー、僕もそうだもん。」

木ノ下さんは、面白そうに笑った。

プレゼンが終わり、邦生さんがちょいちょいと手招きしたので近くに行くと、

「最後、この演出だったら、こういうふうに見せるのもありだな。」とアドバイスしてくれた。

私のはるか前をいく先輩たちは、拙い私のプレゼンを真剣に聞いてくれていた。

それだけで、充分頑張った甲斐があった。

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それから、数ヶ月後にはコクーン歌舞伎で串田さんが演出する「切られの与三」には木ノ下さんが補綴台本で参加するという快挙があり(ラストシーンが古典版と劇的に変わった)、その作品に木ノ下歌舞伎の常連の俳優さんも参加するなどと、時代は刻々と変わっている・・・ということを肌で感じる出来事があり、

私も、邦生さんの京都の作品に参加した後、木ノ下歌舞伎に関わる様々な方とお会いすることもでき、ダンサーの白神ももこさんや、北尾亘さん、演出助手をつとめている岩澤哲野さん、そしていつも優しい制作の本郷さん(昨年当日券が私の目の前の人で売り切れてポロポロ泣いてしまった私を、救い出してくれた・・・涙)

木ノ下歌舞伎のことを知ってから、こんなにたくさんの人に繋がり、色んなことを教えてただけるとは思ってもみなかった。

その後、静岡のSPACという大劇場で演出部を経験させてもらい、HANAICHIを立ち上げ、ようやくここまで2年。

あの時出会えた美佳さんにも、またご連絡することもでき、今度影絵のことでお話しさせてもらうことになった。(美佳さん、ありがとうございます!)


物事はゆっくりと進む。

結果は、すぐに目には見えて出ない。

でも、確実に2年前のあの時より進んでいる今があって、2年後の私がいる。


木ノ下さんの古典講座初日、なんだか演劇関係の雑誌の取材の人たちがきていたり、アーツカウンシル東京の人たち(アーティストに助成金を出しているところ)がきていたり、演劇関係のいろんな人がいるなかで、参加者それぞれ自己紹介の際に、私は実績もないどこの馬の骨かわからんヘンテコなやつで(参加者の中には、某テレビ局のプロデューサーもいた)

「なんだこの子?」

みたいな皆の空気を全身で受け止めた感じがして

「なにやってるんだ私・・・」

と、帰り道、1人でポロポロ悔し涙を流しながら帰ったのだった。


あれから何度も、「この先、何があるんだろう。」と

何度も折れそうになることがあって

今だって、ついこないだだって、

「ああ、もうだめかもしれない。」

と思う時は、やはりいくつもある。

それでも、

「とりあえず、この一年頑張ってみよう。」

そう思って、また重い足を、一歩、前に進める。

そうやって、ここまで歩いてきた。


そのなかで、何度、嬉しい出会いに巡り会えてきただろう。

会えてよかった、と思う人たちに出会えてきた。

いろんな場所で。


今でも、「三人吉三」を作品上演することを、私は諦めていない。

どんな形になるかわからないが、きっと、やってみたい。

というか、「三人吉三」を演出してみたかったから、私は演出を学ぼうと現場に入ったのだ。

もともと、演出家になりたかったわけではない。

今でも、演じることが一番好きな場所だ。表現する人でいたい。


まだまだ、私の旅は終わりそうにない。

どこまでいくか、どこかにたどり着くのか、途中で終わるのか、

それは行ってみなければわからない。


それでも、会いたい人には会いに行くし

やりたいことは、やってみる。


そうやって、歩いてきたんだ。


だから、まずはHANAICHIという場所から。


ここからまた、はじめてみる。

次の、出会いのために。


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2020.7.22.   HANAICHI主宰 菊地もなみ



Photo by Ben Matsunaga, Monami Kikuchi

















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