ロックの日なので音楽と政治信条と忌野清志郎についてにわかが語ってみる企画
正直な話を言えば忌野清志郎という人に対して、僕は昔あまり興味が無かった。せいぜいが真剣十代しゃべり場に出てたおじさんというぐらいの認識で、テーマソングだったトランジスタラジオは別として彼のやっている音楽や、ましてや信条的なところにまで視界が広がる事はなかったのである。
忌野清志郎の音楽にちゃんと触れるようになったのは、友人と遊びに行ったFUJIROCKで忌野清志郎のステージに出会ってからだ。別にその時のMCやステージングに深く感銘を受けたというわけでは無い。サマータイムブルースも歌っていたが、特に反原発思想でも無かった僕にとっては思想の強いおじさんだなぐらいの印象しかなかった。ただ、JUMPは良い曲だなと思ったし、そういえばトランジスタラジオもちゃんと聞いたこと無いなと思った。ロック小僧が興味を持つ理由なんて最初は皆その程度のものなのだ。
追いかけていたバンドが次々と活動休止し、後継のバンドもあまり刺さらなくて次第に暇を持て余すようになった僕は忌野清志郎の音楽に触れる機会が増え、その破天荒さや、詩情、アーティストとしての姿勢に次第に興味を深めるようになった。
中でもTIMERS時代のFM東京事件やNHK始末書持ち込みライブなんかは痛快だった。今の時代であんな破天荒な事をする若手がいたら秒で業界全体から干されるだろうし、そんな事を好んでやる大御所もいなくなってしまった。良い意味で、当時はおおらかな時代だったのかもしれない。
そういえば忌野清志郎の歌を一回も聞いたことが無い人というのは、たぶんそれを知らないだけだ。セブンイレブンのおでんの歌と言えばわかるだろう。モンキーズのカバータイトルであるデイドリームビリーバーだ。その穏やかな楽曲を歌うのはTHE TIMERSの時代の新左翼活動家のような装いをしたZERRY(忌野清志郎によく似た人)その人である。
FM東京に対して放送禁止の抗議を名指しで華麗に歌い上げ、その舌の根も乾かないうちに件のデイドリームビリーバーを歌うのが、そしてそれが様になってしまうのがTHE TIMERSというバンドだ。そんな調子で常に音楽を以て新興宗教を揶揄し、北朝鮮の拉致問題をユニークさで歌い倒し、税を揶揄し、総理大臣を揶揄し、原発を揶揄し、時にはアルカイダのコスプレさえしたりもしてきたのが忌野清志郎なのだ。間違えた、ZERRY(忌野清志郎によく似た人)なのだ。
どうやらFM東京の歌を創価学会にも歌い替えていたらしいTHE TIMERSである。もしも今彼が存命だとしたら統一教会を揶揄する曲ぐらい平気で歌うんじゃないだろうか。統一教会はこの曲に合わせるのに語呂が滅茶苦茶良さそうだから誰かカバーしてくれ。バンド名はTHE CULTERSとか良いんじゃないかな。カルタが大好きとか言っておけば大丈夫だよ。絶対に大丈夫だよ。
別にロックバンドかくあるべきなどと言うつもりはない。大人の事情は別として政治的な信条を詩情の中に落とし込むのは恐らくかなりハードな作業だ。忌野清志郎の曲が支持を集めたのは単に反体制だからというわけではなくて、それが常に彼の詩情の中に包括されていたからに他ならないだろう。ただ、奇を照らしたり過激な発言や思想を押し付けるだけではなく、忌野清志郎の奏でる音楽は常に聞いてる者にQを投げかけるスタンスで描かれていた。彼は揶揄したり文句を並び立てる事はあっても、君たちはこうあるべきだなどとは歌わない。ただ、そこにこういう問題があって自分はムカついている。君たちはどうだ、ちゃんと愛し合ってるか。そういうスタンスの柔軟さが彼の音楽にはあるのだ。
反体制の信条を描く音楽自体は別に特段珍しくも無い。中でも原発問題を歌ったアーティストなんていうのは日本には数多くいる。ただ、そんな数ある反原発ソングの中でも自分にとって聞く価値があったなと思えるのは忌野清志郎を除けばTHE BLUE HEARTSのチェルノブイリぐらいのものだ。逆に、政治的な事を歌うというのはそれだけ難しい事なのだろうと思う。
創作活動に触れた事のある人ならわかると思うけれど、人間という生き物は普通に自分の感情すら正しく理解できていない生き物なのだ。創作というものはある意味で自己理解と他者理解の果てに費やされる莫大なエネルギーの発露であるとも言える。自分の感情ですら正しく理解する事に膨大なエネルギーを消費するのに、複雑に絡み合った政治的な問題を正しく捉えて自らの感受性の中に落とし込む作業と言うのは考えただけで面倒であるし、容易に浅薄な理解と過激な怒りに倒錯しかねないリスクすらある。
怒りは特に感情の機微や思考の複雑さをたやすく飲み込んで安易な単純化に導いてしまう事が多い。そして、その思考の過程と結果への道筋は残酷なほどに詩情の良し悪しに現れるのだ。政治的な問題や社会問題を歌うアーティストが少ないのは単にそれが果てしなく困難であり、メリットの無い苦痛を伴う探求であるからではないかなと思う。
僕の知る限りその探求を踏破したと言えることができるほどに価値観を完成させられたと思えるのは忌野清志郎と真島昌利の二人だけだ。少し反体制にかぶれてみましたみたいなアーティストのごっこ遊びなど、大半は聞くに堪えない。そこには実感が伴わないからだ。
張り子でコラージュしただけの言論の羅列には音楽としての魅力なんて生まれえない。それは僕が近年のメジャーシーンに興味を失くしてハスリングラップや地下アイドルの楽曲に入れ込んでいる理由でもある。そこには彼らが歌う必然と彼らの感じた感情の実感と、思考の旅路の情景が伴うからだ。
忌野清志郎の楽曲にはそれがあった。すべてに彼が歌うべき必然と、価値観の旅路の果てに積み上げた詩情があった。だからデイドリームビリーバーも宗教ロックもFM東京の歌も雨上がりの夜空にもサマータイムブルースも赤い原付もパパの歌も、全てを同じテーブルの上に並べて何の問題も無かったのだ。それは凄まじい事である。
忌野清志郎はただ社会派を気取っているだけのアーティストとは明らかに一線を画していた。誰の視点にも潜り込み、その感情の機微を感じ取り、そこに在る価値観の探求を行い、それでもあくまでロックンロールに魅せられた一人の少年として葛藤の疑問符を音楽を通じて投げかけ続けた。
その価値観の旅路の集大成として描かれたJUMPには何かを変えたいと願う衝動と、自分達が直面している様々な問題に対する自分の無力さの自覚、それでもなお歩みを止めたくはないという矜持と覚悟、そして未来への希望が見え隠れする。そこには忌野清志郎にしか綴り得ない境地があり、忌野清志郎が歌う事でしか説得力を持ちえない物語がある。だからこそ、JUMPは晩年に綴られた曲でありながら忌野清志郎を象徴する曲として語られる事が多いのだろうと思う。
彼の音楽を愛する人たちが、けれど、そんな彼の音楽やメッセージをどう受け取っているのかはわからない。それは結局受け取る人による。忌野清志郎の信条に共感はしないけれど彼の音楽が好きだという人も中にはいるだろう。共感できないメッセージを発信するアーティストを好きになれるというのは、だいぶ変わり者だなとは思うけれど、それはそれでいいのだろうとも思う。忌野清志郎の音楽は問いかける音楽だ。愛し合ってるかい。その答えは、その疑問に出会った時にそれぞれの人がそれぞれに出せれば良いのだ。
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