天国は存在する。
天国は存在する。
それも沢山。そして今も消費されている。
とはいえ、勿論キリスト教や仏教などで語られている天国そのものの存在を確認したという話ではない。
まずはふとこう思った経緯と、ここでの天国の定義を話そうと思う。
そもそも突然こんなことを言い出したのは、最近ハマっているニーチェ哲学について考えていたからだ。
ニーチェ哲学においてキリスト教は非常に重要かつ執拗に批判されているものなのだが、ニーチェが心底キリスト教を嫌った理由はこんな感じだ、と俺は解釈している。
確かに人間にとって、生とは苦悩に満ちたもので、生きる意味を見出せぬままには生きていけないほど辛いものである。
だがそれらの苦悩は人間が個々人で向き合い乗り越え、抱きしめなければならない問題だ。それでこそ人は自分の生を朗らかに肯定できる。
だというのにキリスト教はその機会を奪った。
否定できない神という超常存在がその意味を保障する等という安易な答えを与えて、「苦しんでいるあなたこそ救われますよ。だから自分を抑えて他者に尽くしなさい」なんて奴隷根性を植え付けた。
辛いことが沢山あるからこそ、それを少しでも多く乗り越えられる力を欲して生きる姿こそが人間であるというのに、その機会を奪い更に苦痛を上乗せしているのだ。
勿論俺自身の考えではなくニーチェ先生の批判なので怒らないで欲しいのだが、まぁ多分こんな感じだ。
さて、このニーチェの価値観での天国の定義となると、何になるのだろうか。
俺は以下のようなものだと思う。
・人間が苦悩に押しつぶされ何かしらの救いを求めた時、目の前の現実以外の場所に苦悩の無い解放された場所を求めた世界。
・自らの生に乱立して立ちはだかる苦悩達に向き合うことから逃げ、ストレスフリーで希望だけに満ちている場所という虚構の世界。
・辛い現実から目を背け、心を慰めるために十分な説得力を持った、自分がその場所に加われるかもしれないという期待の残る未知の世界。
三通り書いては見たが大体同じ意味だろう。
改めてキーワードを抜き出してみると、
・現実逃避先
・苦悩はなく、希望だけがある
・ここ(現実)ではない何処か
・自分もいずれそこに行けるという可能性
こんな所だろうか。
天国をこのように定義して現代を振り返ってみると。
沢山あると思いませんか?
某夢の国、異世界転生して俺TSUEEEE系、女の子達がキャッキャウフフする日常系アニメ、放置してたら爽快感溢れるスマホゲーム
別にそれらを否定する気は、……
うん、否定する気はないんですよ。個人的にあまり好きになれないというのが本当のところではありますが、それを好きな人を、良いと思っている人を否定するつもりは本当に無いです。
ただ単純に面白いなと思っただけなんですよ。
大昔の人が死後の世界にしか求められなかった天国が、今やそこら中に溢れているというのが。
現代に限らず過去未来を振り返ってみましょうや。
新大陸アメリカ大陸。同じ地球上の、でも陸続きでは無い金の沢山埋まった未開拓の地。
夢の国。現実社会と地続きでありながら、参加者全員でここは夢の国だと肯定することで、現実から切り離された楽園。
キャバクラやクラブ。爆音や酒、色香によって思考力を押し流す一夜の夢。
様々なラノベやゲーム。架空の世界に想像力で飛び込み、精神だけでも、あるいは転生することで、現実から逃げおおせる虚構。
超次元的存在から受肉したキリストと面白いほど真反対に、現実からバーチャル空間に受肉してゆくVtuber。
そして、ついに、とうとう。思い通りに作り上げることのできる新大陸を、自らの手で作り上げていくメタバース。
その多くは辿り着いてみたらやっぱり良い事ばかりじゃ無いという当たり前の壁によって天国ではなくなるが、何時だってここでは無い何処かに苦悩の無い希望に満ちた天国を求め続ける。
演者も客も、皆で意図的に目を瞑ろうとすることでうまく天国を維持出来ている夢の国やVtuberは、純粋に凄いと思う。
全ての人にとって人の生とは苦悩に満ちたもので、そして多くの人にとっては直視できないほどのものなのだろう。
だから人は意図的に思考力を麻痺させることが出来る酒を古来から愛し、「現実ってそんなもんだ」という言葉で思考を強制終了させる。
そうしないと無力感と恐怖で動けなくなってしまうと、きっと誰もが本能的に悟っているんだろう。
だから誰もが考えすぎずに済むように、宗教に分かりやすい答えを求め、心を慰められる天国を求め続ける。
だから、きっと天国は必要なのだ。人の生を直視して生きる道は、余りにも険しく困難で、知識と思考力と意思の全てが揃わねば容易に絶望し死に至る道なのだから。
多分俺はその道を8割程度は進めていると思う。この道を振り返って、やはりニーチェのように万人に勧めるには、あまりに酷な道だと感じる。俺のここまでの道は、そんな安いものじゃなかった。
明日のパンのことに精一杯で、行き過ぎそうな思考を天国で慰めて生きるのも楽な人生だ。そして楽な道を選ぶことは何ら悪ではない。その人の選択だ。
でも、やっぱり思ってしまうのだ。皆、それでいいのかと。
自ら選んだのなら良い。でも皆ちゃんと選んだのか?と。
自らが苦悩してまで生きる意味を、他人が用意した答えに委ねていると自覚しているのかと。
俺は正直言って、悩みの無いゆるふわ日常系の物語や、全てがご都合主義的に自分の思い通りになるくせに自分は綺麗なままでいる物語が嫌いだ。
そんな安易なものがどうして受け入れられようか。
俺は、やっぱり俺は苦悩を愛し理不尽に怒り、全てを糧にして力を求める生に憧れるのだ。
死なないために思考を止め、天国に慰めを求めて、そうして自らの苦悩が無かったらいいのにと誤魔化し誤魔化し生きていくのが社会に適合していくということなら。
俺は断じて社会に適合したくない。胸を張って社会不適合者でいよう。
まぁ、そんな生意気なことが言えているのもきっと、俺がまだ恵まれている方だからなのだろう。
それなりの教養と思考力を持って、特に致命的な要素も無い中流階級の家に生まれ、働かずとも生活保護で飢えずに済み、まだギリギリやり直せる年齢だ。
ただ、それは後ろめたい事か? ズルい事か? 肩身を狭くすることか?
最近ようやく本心からそうじゃないと思えるようになってきた。
ここはきっと、持って生まれた能力、ここまで生かし学ばせてくれた環境、それらへの感謝は忘れてはならない。
あぁそうだ。生活保護で暮らしていると特に思い知る。食費も、ネットも、道路の信号も、科学知識も、人生哲学も。そんな当たり前に触れられるものが沢山の人の積み重ねによって積み上げられていて、ただそこに立っているだけで多くの人から与えてもらっているのだと。
だからこそ俺がするべきなのは更に自分の力を増し、出来ることを増やし、没落すること、誰かに還元していくことなんだろう。
目の前の人としょうもないことで笑い、お金を稼いで寄付をし、これからニヒリズムとルサンチマンに立ち向かおうとするひとを根気強く待ち、求められたときにヒントを指し示すことなのだろう。
世の中には当然のように苦悩が満ち溢れている。
状況の有利不利はあれど、いくら科学が発展しようと苦悩は無くなりはしないんだ。
でもきっと、それがあるから人生は面白い。幸いにも現代では理不尽な終わりはかなり減ってきているのだから、苦悩の中で、自分が出来ることを探していくことを楽しめるようになりたい。無かったことになんて無かったらいいのになんて思いたくない。
あー着地点見失った……
まぁ、そんな感じです。
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