自分を、他人を、未来を信じられる社会へ

 あなたは神を信じますか?

 なんて聞くときっとビックリされるでしょう。
 私は神は「0」と同じで、「観測できないがあると仮定した方が物事を考えやすい概念」だと考えています。

 日本人は神を信じていないとよく言われますが、じゃあ自分はどうでしょうか? 自分には、今を変える力があると信じられているでしょうか?
 他人はどうでしょうか? 他人への情けは、いずれ自分を助けることになると信じられているでしょうか?
 未来はどうでしょうか? 明日は今日より少しだけ良い日になると信じられているでしょうか?

 私は、自分を、他人を、未来を信じたい。
 えぇ、信じていないからこそ、信じたいと願うのです。
 自分は裏切るし、他人は口では綺麗事言ってても自分大事だし、未来は停滞しながら少しずつ悪くなっていく。
 こうしたいと思った通りに動く自分、迷惑をかけた分だけ自分も優しくなればいいと思える他人、寝る時に明日は何しようとワクワク出来る未来、そんな当たり前は、私にとってはちっとも当たり前じゃありませんでした。

 そんな苦しい状況に追い込まれると、運命の袋小路に閉じ込められた気分になります。
 自分も他人も何一つ信じることが出来ず、苦しい今が未来永劫変わらず続いていくだろうという恐怖。
 「止まない雨は無いさ」なんて言葉がとても薄っぺらく聞こえて、暗い未来を打破するために取れる手段が無いと無力感に覆われる。

 そこから抜け出したくて、色々調べ、考えました。
 哲学や自己啓発本、歴史に社会の仕組み。
 考えたけどやっぱり一人では変われないと悟りました。
 誰かとの出会いや経験が自分を変えるのだと。
 でもいざ尊敬出来る人と出会っても、信じる事が出来ず、中々変われませんでした。
 全てを疑った後出した答えは、「我思う、故に我有り」ではありませんが、自分の中の本物を見つける事でした。

 私は人の本質とは矛盾にあると思います。
 善と悪、衆と個、集と孤、理性と本能。その天秤を事あるごとにどちらにどれだけ傾けるかを悩み続けるのが、人という生き物だと思います。
 善意だけで構成された人間が居ないのと同じように、悪意だけで構成された存在もまた居ない。
 きっと人それぞれの中に誤魔化しや欺瞞に汚されていない本物の「思い」があると信じたいのです。
 それが本当なのかは分かりません。でも信じたいからこそ、虚飾に隠された人の中にそれを見出したいのです。
 それが私の中の「本物」なんだと思います。
 私のような頭でっかちには、自分の中に見つけられないものが他人の中にあるとは思えなかった。だから機会に恵まれても、他人を信じることが出来なかったのだと思います。

 繰り返しになりますが、私は他の人の「本物」を見たい。
 自分の無力さに打ちのめされ、他人に否定され、未来に絶望し、何度も何度も諦めようと、捨てようとして尚捨てきれなかった願い、善意、可能性を見たいのです。
 それを掲げて現実に向き合い、「それでもまだやれることがある」とまた立ち上がる姿を見たいのです。
 そうすることで、少しずつ私自身も自分を、他人を、未来を信じる事が出来ると思うから。
 誰かの本物の情熱に触れる事が、人生が変わる切っ掛けになると思うから。

 だから私は、私のままで、みんなが自分の「本物」を見つける手伝いをしたい。
 その為には己の中の獣を綺麗に見せるべきではない。
 これまでの苦悩を、葛藤を、絶望を、無かったことにはしてはいけない。
 自分はこれで良いなんて肯定することは出来ない。これからもすることは無いだろう。
 それでもせめて、精一杯生き足掻いた結果がこのザマだと受け入れて、どこまでも無様な人間として、それでも醜いだけが人間じゃないんだと示せる人間でありたい。
 自分のために、他人のために、未来のために、やれることがあるはずなんだと、信じさせられる人間でありたい。

 それが私の原点です。

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