過程の感情を流さないで
私はTwitterでも活動しており、その活動内容は引きこもりに関わるものが多いのですが、HSPについても情報収集している。
そしてそのHSP界隈で、先日、こういった趣旨のツイートが話題を呼んだ。
「HSPのためを謳ってるアカウントへの違和感。結局流行りのHSPに乗っかって独立とかを促して金儲けしたいだけじゃないの?」
こういった、社会的マイノリティーを利用する人と、軽く食い物にする人達を疎む人の対立。
今回はそれらについて持論を語ります。
苦しんでいる自分の気も知らないで
引きこもり、HSP、鬱。
本来十把一絡げに並べれるものではありませんが、こういった心の問題には昔からある対立があります。
「最近マジで鬱だわー」
「緊急事態宣言のせいでもはや引きこもりになってるんだけどw」
「分かる分かる、付き合いとか疲れるよねー。私もHSPなのかもw」
心の問題というのは、厳密な判定方法があるわけではありません。
病気と違って明確な病原体がいるわけではありませんから。
そして往々にして、こういった問題は多かれ少なかれ多くの人が持っているもの。
憂鬱な時もあるし、気力が無くて家から出られない事もあるし、気を使いすぎて疲れる事もある。
そしてこれらの「病名」は、自己弁護の為に利用するのが非常に容易い。
ただ、当然の如く本当に苦しんでいる当人達からすればそういった軽々しい病名の利用は、非常に不愉快なものである。
自分達がどれだけ苦しんだ末にその「言葉」に辿り着き、受け入れたか。
それを知らずに軽々しく語るな。
当事者たちは直面している苦しみを「言葉」で表現することで形を与え、それを元に付き合い方や対処法を探していく。
一方部外者たちはその「病名」だけを利用し、言い訳の道具に使う。
或いはその「病名」で釣れる人達を利用し、自らのビジネスチャンスに変える。
当事者達が声を上げ、世間的に広まるにつれて、広まったからこそこういった問題は毎度起きてしまう。
その時当事者が抱く感情は、もはや憎悪とさえ云えるだろう。
お前みたいな明るい奴が○○を語るな!
同じ当事者間でも対立が起こる。
引きこもりで言えば
「テレビに出て代表者面してる奴が引きこもりを語るな。本当の引きこもりは俺みたいにそうやって発信する事すら出来ないんだよ!」
という主張だ。
発信している側としてはテレビで見せているのは取り繕えている時だけで、普段は皆と同じなんだよ、と言うのだが感情的対立が発生するのだ。
詳しくは下記の記事が非常によく纏めてらっしゃるので、興味が荒れは読んでいただきたい。
その憎悪の大本は
私がこういった心の問題についての記事や自論を書く時、必ずくどい程「私はこう考える」「という人が多いと思われる」とワンクッション入れるようにしている。
それは私個人としても、「分かった振り」が何よりも癪に障ることを知っているからだ。
自分達は実生活に支障が出るレベルで苦しんでいるのに、安易に
「分かるわー。俺も昔経験したし。でも俺も乗り越えられたから大丈夫だって」
「それは甘えじゃない? 皆だってそう思う事もあるけどなんとかやりくりしてるんだし」
「あぁそれね。それは○○だからそう考えちゃうんだよ。だから君は××すればいいのさ」
正直言うと、自分で書いているだけでも沸々と怒りが湧いてくる。
当事者の方であれば、読んだだけで一瞬頭に血が上った方も多いのではないだろうか。
確かに、自分達の抱えている悩みや苦しみは誰もが経験のあることかもしれない。
だが違うのだ。自分達は「乗り越えられない苦しみ」をこそ苦しんでいるのだと。
理解して欲しい。だからこそ憎悪する。
皆が乗り越えられているはずのことを、これをやっても駄目、あれをやっても失敗、あんな事までしたのに挫折、そしてこんなにも苦しんでいる。
その全てを聞かずして何を語るか。
やはりあくまで私見で、自身の経験を元にした分析と表現ではあるが。
当事者たちはその苦しみの過程と感情をこそ理解して欲しいのだ。
確かに考えすぎだったのかもしれない。
きっと自分の行動は間違っていたのだろう。
ただそれでも自分なりに精一杯足掻いて、悩んで、苦しんできた。
その感情をこそ受け止めて欲しいのだ。
なのにそれらをすっ飛ばして結論に行く人を憎むのだ。
悩んだ末に得た「言葉」という形を、形だけの結論である「病名」だけ利用する人を。
答えという結論を提示して、さっさと次へ促そうとする人を。
過程の感情を見せずに、その先で得た結論を語る先達を。
故にこそ、「渦中」の言葉が必要
例えば引きこもりであれば、当事者の心中を吐露した、有り体に言えば鬱々とした愚痴や泣き言を書き連ねた文章に共感するだろう。
HSPで言えば #HSPあるある といったハッシュタグに共感するだろう。
こういった、共感から生まれる親近感が無ければこの界隈では信用を得られないんじゃないかと思う。
なんというか、綺麗事で覆い隠す人は結論を急いでこちらの感情にまともに取り合ってくれない気がするのだ。
逆に、違った形であっても似た経験をした人なら、ちゃんと受け止めてくれる、そんな気がするのだ。
少なくとも私の場合、誰か情報を発信している人を見つけ興味を持ったら、その人の過去の体験談の話を探す。
そしてその文章に表現された「感情」を探す。
悩み、苦しみ、救い、怒り、絶望、共感、虚無、歓喜、安心、etc
そして探した結果、綺麗な言葉で見栄えよく飾り立てた記事しかなかった場合、正直あまり信用しない。
だからこそ私自身が発信する側となる為に、基本的には読みやすく書き上げつつ、要所要所で感情を乗せるようにしている。
特に自己紹介においては強く、感情を乗せて書いている。
そして本心から誰かの助けになりたいという人には、是非感情を乗せた自己紹介を読ませて欲しいと思う。
最後に
言うまでも無く、同時に繰り返しにはなりますが。
こちらの今までの悩みや苦しみを流して結論を急ぐ人は、押し売りビジネスと謗られて当然だと思います。
幸いにしてまだ今の所そういった業者には出会っていませんが。
当事者たちが抱く感情が「憎悪」と言える程にどす黒く、生々しいものであることを業者さんたちはお忘れなきよう。
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