ありのままの自分
「推しの子」のアニメの第一話を見てあまりに引き込まれたから原作を一気見していた。
それで久しぶりに書きたくなった。
誰もが本当の自分を探している。
誰もがありのままの自分を認めてもらいたいと願っている。
ひと昔前はレリゴーレリゴーと皆が口ずさんだものだ。
歌手は「そのままの君で」と歌い、漫画では「君のやりたい事を」と熱弁し、多くの人がアイドルになるのに憧れ、沢山の人がアーティストとして生計を立てたいと夢見る。
自分を表現し、それを多くの人に認めさせたいと願う。
そんなのは多くの人が一度は夢見る事で、俺自身もその最中な人間だ。
ただ当然、それは容易なことでは無い。途轍もなく狭き門で、ほんの一握りの才能ある人物が死ぬほど努力して、更に運もあってやっと辿り着ける境地だ。
何故そんなにも狭いのか。
答えはシンプルだ。
需要と供給が釣り合っていないからだ。
誰だってそのままの自分を認めさせたい。素の自分を歪めたくなんかない。
供給は人の数ほどある。
だがその「ありのまま」とやらが他人を喜ばせるものかは別の問題だ。
醜く皮肉屋で偉そうなことを口で言うだけの輩に、需要なんてあろうはずもない。
綺麗で前向きで謙虚な人の方が需要があるに決まっている。
芸能界もYouTuberもtiktokも、ビジネスだ。
ビジネスとは金を出す奴がいて、貰う奴がいる世界だ。金を出す奴が居ないのなら、金は貰えない。金を貰えなければ肉体を維持できない。
とても、当たり前の事だ。
多くの人から好かれる要素と言うのは凡そパターンが決まっていて、ありのままの自分がそれであるかは運次第だ。
これは別に売れるための技術を軽く見ているという話ではない。
ありのままの自分を偽って売れるものを出力し続けるのも立派なことだ。
才能だけで売れたなんて論でもない。並外れた技術というのはとても大事で、でもそんなの前提だということだ。
ありのままの自分を世間に認めさせて、それで食っていく。
誰もが夢見るものは、あまりにも条件が厳しいというだけの話だ。
自分がその好かれるパターンでもないのに世間から認められるというのは、更に稀なことだ。
だというのに、多くの人が自分がその幸運な人間であると願い、裏切られ、失望していく。
これに対するアンサーを俺は知っている。
というか人類誰でも知っている。
世間ではなく個人にそれを求めるのが収まりが良い。
親密な個人にそれを求めれば、ある程度その欲求は満たされる。
だから多くの人は恋愛を崇め奉り踊り狂うわけだ。
「ありのままの自分」が認められているという感覚は、どんな感覚なのだろうか。きっと、とても幸福で満ち足りたものなのだろう。
だが、俺はそれを知らない。
交際経験が無い訳ではないが、どれもしっくり来ず長続きしたことは無い。
親の愛というのも分からない。別に所謂「愛の無い家庭」では無かったはずで父も母も俺に対して愛情は持ってくれていたのだろうが、俺がひねくれ過ぎていてそれを信じられない。彼らは「 」ではなく「自分の息子」を愛していただけのだと思ってしまう。
それに、そもそも俺自身が俺を愛してなどいない。常に否定こそが自己評価だ。
「愛されたことが無い」とまでは思わない。が、「愛されていると感じたことは無い」というのが、詰まる所俺の主観なのだ。
俺はいつか、愛を知ることが出来るのだろうか(適当
まぁそんなことはどうでもいい。
言いたかったのは、「ありのままの自分が沢山の人から愛される」なんてことは基本的にありえない、ということだ。
今更改めて論を並べる必要もないくらい、一度でも社会に出れば誰もが知ることだ。
無条件に愛されることなんて無い。無条件にご飯をくれる人なんて居ない。
明日に命を途絶えさせないためには自分も誰かの需要に答えなくてはいけなくて、敢えて悪く言えば自分を曲げて媚びなければならないということだ。
「自分の幸福が他の人の幸福になって、それでご飯を食べられる」
そんなアイドル育成ゲームのアイドルみたいな話は、まず自分事にはなり得ない。
結局のところ、「自分に取ってまだマシな苦悩を引き受けることで譲る代わりに、自分に取って耐えがたい苦悩を他人に背負わせる。それが経済」というこれまた当たり前の話だ。
自分のやりたい事と、世間のニーズが最初から一致しているなんて、基本的にあり得ないことなのだ。
そんなご高説を垂れている本人がニートというのはこれまた噴飯ものではあるのだが、まぁそんなことは分かり切っているという話だ。
そんなのとっくの昔に分かっている。理解している。体感している。実感している。
そんな所謂「現実」ってやらが「おかしい」とか「間違っている」とかも思っちゃいない。現実というのは元来辛いものだ。これでも人類史を振り返ったり、世界規模で考えるならまだかなりマシな方なのもよく理解している。
だから結局、何をどこまで譲ればいいのか、という話だ。
ありのままの自分で生きていくのは無謀に過ぎて、かといって需要に答える生き方は無理と知って。
俺にとっての譲れないところは分かって、俺の持つ武器も分かって。
でもまだ足りない。
お金も、スキルも、人脈も、実績も、何もかも無い人間が自分の話を沢山の人に聞かせたいなんて願ったって、そんなの誰もが考え挫折したことがある程度のありふれた欲求だ。俺は決して特別な人間では無い。
その俺がその欲求を叶えようとするなら、俺は何を譲ればいい。俺の様な我慢できないことが多すぎる人間が、どうしろというのか。
簡単な話だ。そういう人たちを支えるために、出版社や事務所みたいなものがある。
尖り過ぎた逸般人と社会とをなんとか折衝する必要があるから、これだけ色んな会社があるのだ。
正道は分かり切っている。オーディションを受けろと言うだけだ。実にシンプル。
それをしないのは結局のところうまく自分のビジョンを魅力的且つコンパクトに説明できる気がしないからで、専門家に説明できない奴がその他大勢に説明できるわけがない。
俺の考えを説明するには時間がかかる。それは俺の考えが並から外れているから、なんてのも。
所詮、言い訳だ。
それを言ったらおしまいなんだよ。
つまりお前はありふれた夢見がちな落伍者で、それ以下かはともかくそれ以上ではないという結論だ。
長ったらしい説明とか、時代にあっていない。
そんなことは最初から分かっている。分かっていて尚、信じたくない認めたくないと駄々をこねているだけと自覚さえしている。
だってそうだろ。
そんなの認めてしまったら死ぬしかないじゃないか。
人は生まれた意味や生きる意味を持って生まれたりなどしない。最初から無い。
そういうのは生きていく内に自ら定めるものだ。
そして俺にとって、あらゆる娯楽や幸福感などは、生きる慰めにはなれど意味にはならない。
意味がない人生を生きるには、人の生というのは苦痛に過ぎる。
そういう結論になる。
愛を知らずに育った大人は、壊れるか鬼才となるかのどちらかに振れやすい。
所詮俺は、前者のまま終わる程度の人間なのだろうか。
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