わからない
今日、親の会の見学に行ってきた。
学べる事が多数あったので、まだ言語化出来ている部分は少ないが記録しておく。
俺は時々、
「親子であれ別の人間なのだから、相手のことが分かるわけがない」
という表現を使う。
すると大抵の場合少し警戒した様子で、
「分からないってシャットアウトせず、お互いに歩み寄ることが大事だよね」
といった趣旨の言葉を返される。
その度にしまったと思うのだが、未だうまく伝えるのが難しい。
この話題が出る時は大抵親子関係の話題が絡むことが多いから、俺自身少々冷静ではいられず、拒絶の感情が漏れ出ているのだろう。
とはいえ俺がその言葉で伝えたいのは、諦めろって事では無いのだ。
あなたは、エアコンのボタンについて真剣に考えた事はあるだろうか?
仕事の人はともかく、真剣に考えた事がある人なんて殆ど居ないだろう。理由は単純だ。
ボタンを押せばエアコンが付く事が分かっていて、赤外線か無線で信号を送っていて、電池で動いている。それ以上不思議な事は無いからだ。
勿論実はもっと深堀して考えられる。電子基板や液晶の仕組み、通信技術、機械工学から損耗について考えられるし、人間工学的機能美にも考察の余地がある。リモコンの歴史をさかのぼることも出来れば、流通経路や経済学的考察も可能だ。リモコンとセットであるエアコンについても、欠かせない要素だ。
だが、当然それらを知らずとも問題なく俺たちはリモコンを使いこなせる。
ボタンを押せば部屋が暖かくなる。
望む環境を整えるために何をすればいいのか知っている。
せいぜい困るのは電池切れを起こした時か、障害物で遮られている時。そのための「電池」と「なんか飛ばしてやり取りしている」さえ把握していれば、リモコンについて分かっていると言える。
人は考える生き物だ。そしてより複雑に物事を考えるために、思考を省略する生き物だ。
思考を省略するために、人は「分かった」気になる。そして「分かって」いる部分はスキップして興味を持たなくなる。思考停止する生き物だ。
逆に分からないものには様々な反応を見せる。理解できる余地が無ければ恐怖、糸口があれば興味、コスパが合わないと思えば諦め。
好きの反対は無関心だとはよく聞く言葉だが、その言に則るならば「分かった」気になるのは好きの正反対だということだ。
だからやはり、「人と人が真の意味で分かり合うことは無い」というのはむしろ、人間関係における福音だと俺は思う。
どれだけ相手のことを好きで、同じ時間同じ環境を過ごしたとしても、完璧に「分かってしまう」事はない。安心して最大限相手を理解しよう努力を続けられる、つまり好きでいられるということだ。
そしてそれは、人間関係に限った事ではない。
世界の全てに言える事だ。
リモコン一つを取ってみても、それに付随する様々な「分からない」がある。
人間はこの世界の環境を操作することで、ともすればなんでも分かったような気になる。だが当然だが人類全体で見てもそんなことは失笑レベルで有り得ないし、一個人で言うなら以ての外だ。だからこそ役割分担をして、それぞれがそれぞれの場所でプロフェッショナルとなることで、少しでも世界を良くしようと頑張っているのである。
どれだけの天才が居ても人は全てを識ることは出来ないのだ。人の理解の速度より人類が新しく見出す情報より遅いのだから。
まぁ、量子力学が進めば話が変わるのかもしれんが、そこはまだ知らん。
ともかくリアルなんてクソゲーではあるが、圧倒的すぎる情報量だけは唯一絶対の優位性なのだ。
なんの話だっけ。
そう、だから「分からない」ということを理解するのはとても大事な事なのだ。
そしてそれを人類は遥か昔から知っていた。
「不知の自覚」或いは「無知の知」の方が通りが良いか。
「分からない」からこそ知りたいと思うし、永遠に辿り着けないからこそ永遠に取り組み続ける事が出来る。
世界には分からない事だらけだからそれぞれがそれぞれの場所で専門家になるのだ。それは必ずしも特定の学術的技術的分野の専門家を意味しない。飼ってるネコの専門家だって、立派な役割分担だ。
さて、こんな話を滔々と書いてはみたものの、多分大半の人が
「理屈は分からなくもないけど、いや無理だろ」
と思っているのかもしれない。
まぁ実際少なくとも今は割と本気で得心がいっているが、そこに至るまではそれなりに大変だった。
俺の場合、何が必要だったかと言うと結局、「自分が何を知っていて何を知らないのかを把握する事」だった。
もっと具体的に言おうとすれば、「どこで考える事を諦めたかを把握する事」かなと思っている。
先程も書いた通り、分からないものに対する人の対応は三つに分かれる。
何が分からないかも分からなければ恐怖。
何の情報と思考が足りないか分かっていれば興味。
足りない情報と思考が分かっていて尚、そのリソースが足りなければ諦め。
リソースというのは、単純に調べるには一生かかってもお金が足りないという場合もあるが、大体の場合はリソース配分の話だ。
人の物質的なリソースにも限りはあるし、思考のリソースにも限りはあるし、時間のリソースにも限りはある。
だからこそ人は分業するわけだ。他の生物が自身の肉体の維持と生殖に自身のリソースを殆ど割いている中、協力と分業により限りなくそのコストの割合を下げる事で、専門性を拡張してきたのが人間だ。
故に諦めることは悪い事ではない。自分も誰かの代わりに突き詰める興味を持てばいいのだから。
危険なのは恐怖だと思う。
恐怖は攻撃性に転化する。所謂偏見というやつだ。それは差別に繋がり、排除に繋がる。
どこか一つでも理解できる所というか、共感できる所があればそこから想像を手繰り寄せる事が出来るようになるのだが、その起点は結局自分の経験でしか作れない。
だから広い経験が懐の深さを作るのだと思う。
興味を持てることがベストだとは思う。
世の中には分からない事が溢れていて、自分の一生をかけても分からない事を次代に引き継ぐことさえ当たり前だ。
だが例え戦国時代に人権問題に関心があったとしても、誰も取り合わなかっただろう。自分の関心と、適正と、時代が合っているかは運ではあるし、それがぴったりはまった人が時代の寵児となるのだろう。
ただ先程も述べたが別に万人が時代の寵児を目指す必要は無い。ただ自分の大切な人や目の前にいる顧客や友人に興味を持ち、「分からない」を突き詰めれば良いのだ。
まぁそんな事も考えていたのだが他にもいろいろ考えていた。
いや、内容としては繋がっているのだがまだつながりを言語化出来ないから一旦区切る。
親御さんの話を聞いてて思ったのは、まぁ当然だが親も頑張っているんだなということだ。
ただ理解したくても理解が出来ない。どう接したらいいかに心を砕き、行政や学校との対応に追われ、情報を求めて親の会に来る。
分かってはいたというより推測はしていたのだが、真っ最中の人達を目の前にすると圧倒的に情報量が違った。
まぁそんな中で話を聞きながら結局のところ、親子のスレ違いはなんなのだろうかとずっと考えていた。
これは自分の体験を振り返っての自分の考察であり、他の子たちに当て嵌まるとは限らないと前置いた上で、書き留めておく。
結論だけを先に言うと、自分の意思で他者を否定するのが怖いのだ。
普通の人は意識をしないのかもしれないけれど、自分の意思を示すというのは怖い事だ。
何かをするということは、場合によっては他者を否定するということだ。
椅子に座れば、席を奪う。
誰かを愛せば、愛されない人がいる。
自分の善かれで、相手を傷つける。
勿論そればかりではないけど、そういう可能性を孕むことだ。
そしてそうやって無意識のうちに傷つけられる辛さを知っている。悪意なく傷つけられると、相手を恨むことも出来ない。
そして親から意思の示し方を学ぶのだ。
即ち、他の誰かを傷つける事になれば「正しければ問題ない」のだと。
「正しさ」を突き付けられて自分の直観や思いを枉げてきたからこそ、自分の意思で他者を傷つけないよう、正しさによる保証を求める。
ただ、そもそも繊細ゆえに正しさに枉げられていくことに耐えられないくらい、そもそもの自分と正しさが乖離している。正しさが自分のものにならないのに、それでしか行動出来なくなるから苦痛なのだ。
また、正しさに従わず自分の意思を通した場合、当然だがその責任は自分に来る。
正しさに従っている限りは、間違っていてもその正しさを提示してきた人に責任を転嫁できる。
大人になっても「ルールだから」の一点張りの人は幾らでもいる。それと同じだろう。
別に正しさに枉げられていく辛さも、自分の発言に責任を取る怖さも、誰しも経験し知っている事だと思う。
だからこそ普通の人は
「でもそんなん言ってたら何も出来なくなるじゃん。失敗しながら学んでいくものだし、経験していけば案外なんとなかるもんだよ」
と言う。
まぁそりゃその通りである。
ではそういう失敗から学ぶことが許されるのは何時までなのだろうか?
大企業の社長とか芸能人だったら許されない? 不祥事のニュースは最高の娯楽として世間を賑わせている。
社会人になったら許されない? 安月給で追い詰められて使い捨てられていっている。
学生の間だったら許される? 「もう高校生なんだからしっかりして」「そんなんで将来どうするの?」
小中学生だったら許される? 「こうなるからこうした方が良いよ?」「なんでそんなことしたの!」「だから言ったじゃない」
気付いた時にはずっと「正しさ」に守られて、同時に傷つけられて、それ以外のやり方を出来なくなっている。
教育というのは獣に首輪をつけて調教する方向の力を持つ者だ。だが元々獣の身勝手さを持たないものは、反発出来ずに絞め殺される。
それに昔に比べあまりにも「正しさ」の強度が高すぎるのだ。
父親の、両親の、村のしきたり程度なら反発もし易かった。
だけどそれが社会で、国で、科学や歴史に裏付けられていたらどうだろう。それに従っている人しか目にも、画面にも映らなかったらどうだろう。
己1人がNoと声を挙げるには、常識というのはあまりにも重すぎるのだ。下手に感受性が高かったり聡かったりするからこそ、愚かさ故の反抗のタイミングを逃すのだと思う。
そして親自身もその常識に疑いを持たな過ぎて、子を追い詰めていくのだと思う。
それくらい常識というのは強固なものであり、わりと文字通り神格化されていくものだと思う。少なくとも俺はそうだった。
だから必要だったのは、常識を神の座から引きずり下ろし、人の合理性の域に落とし込む事だった。
人の論理は、論理によって否定出来得る。
そして論理の根拠はそれぞれの人生経験から生まれる感情でしかない。お互いが対等な人間であるのであれば感情も台頭であり、究極的には論理の間に優劣は無い。
優劣が無いのであれば、自然の摂理ではやはりそれを決めるのは力だ。
だが人は力だけで従わせることを否定してきた。力で相手を否定し潰すのではなく、交渉によって譲り合うことで双方の力を増幅し協力することを選んできた。
それはとてもハイコストハイリターンな手段ではあるけど、それを可能にするために人類は文明を発展させてきたのではないか。
だからこそやっぱり思うのだ。
これは家庭の問題、個々人の問題ではない。時代の流れの問題なのだと。
別に時代が悪いとさえ言わない。ただ時代の流れの速さに人の対応が追い付いていないだけなのだ。それぞれが己の最善を尽くしているけど、歪みが出ているだけだ。
それは誰かが悪いわけではなく、責めるべきでもなく、ただ原因を突き止めて修正すればいいだけの問題なのだ。
俺はそう、思いたい。
俺は親を、社会を、恨みたくないのだ。恨みを持ち続けるというのは、とても辛いし、エネルギーを必要とすることだから。
じゃあどうしたらいいのかと言うのも考えていると、なんとなくだが別にこれは引きこもりや不登校の話だけでもないのではないかと感じている。
結局のところ、誰もが皆思考プロセスの簡略化に危機感を覚え始めている、というのが世の中の潮流なのではないか。
人間は「Aは(C,D,Fという条件下において)Bである」をC,D,Fという条件を揃える事によって「AならばB」と簡略化して思考を積み上げていく生き物だ。
だがそれまで自明であり、当然であったが故に人為的に調整していなかったFという条件が、時代の流れで変化してしまい、「AならばB」という論理が崩れていっている。それは社会のそこかしこで起こっていることだ。所謂「令和」って奴だ。
でも「AならばB」が当たり前過ぎて誰も深く考えてこなかったから、どの条件が変わっていてその結果どう論理が変わって行くのかが分からなくて困っている。
少なくとも事実なんて報道や加工エフェクトなど、人づてに聞く限り情報を容易に曲げうるものであることを誰もが体感的に感じている。
だからこそ自分の体験という一次情報を大事にするようになってきた。
でも世の中には情報が多過ぎて、深く考えている暇はない。まとめられた情報を探しつつその中で取捨選択を繰り返しながら、どこかにヒントを探している。
情報は今や希少なものではなくなった。
処理しなければならない情報は大量にある。だが一方で省かれている情報から何に配慮しなければならないかを精査しなければならず、既存の正攻法も頼りにならなくなってきている。
どこから手を付けて良いのか分からないのだ。
何が分からないのかが、分からない。
それは、恐怖だ。
だからこそ俺がやるべきことは、「論点整理」なのだろう。
当然のように物事には表と裏がある。利を得る条件があれば害を被る条件もある。
分解していけばそれぞれどういう条件を想定されていて、どの条件を満たす人がどういう利益を得られるように社会が出来ているのかを理解できる。
フラットに捉え直せば、今までの社会にとって今の常識が非常に合理的であったことに納得がいくし、どこが変わったから合理的でなくなったかが説明がつく。そしてそこに気付くためには「多様性」というものが必要なのだと思う。
整理すればするほど「分かった」部分が増えていって、それ以上の速度でここから先は「分からない」場所が具体的に増えていく。
そしてその「分からない」の先を考え続けた人に教えを乞うことが決して恥ずかしくないのだと理解し、自分も同じように返せるように何を考え続けるのかを自分に問いかける。
何が分からないかをある程度例として整理してみて、その先の思考を促し見守る事。
それが俺の目指すべきところなのでは無いか。
途中で離席したりしてるし、自分の中でもまだまとまり切っていないものをエディタに叩きつけているので文章量も多くなったし説明不足も多いし同じことを何度も書いてる気もする。
が、まぁある程度書き出せたし6000文字も書いたからもう良いだろう。なんにせよ、見学に行ったのは中々有益だった。
終わり。
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