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“伝えないこと”から読み解くー『Mrs. GREEN APPLE // The White Lounge ㏌ CINEMA』考察🛋️

前提としてこの映画に登場する大森元貴は、現実の大森元貴とは切り離し、(もちろんリンクする部分はあるかもしれないが)別の人物として捉える。映画自体がフィクションであり、大森は1人の人物を「演じている」ということを念頭に置き述べていく。



変わりたいと願う物語

白いスーツに身を包み、芝生で大の字に眠る大森元貴が目を覚ますシーンから始まる。起き上がった大森は、手元にあったハットを被り、スーツケースを持ち(一瞬スーツケースを焦って探すそぶりをしていた?大森にとってスーツケースは大事なもので手元に触れていなかったから不安だったのかもしれない)、ゆったりと歩き出す。辺りには誰も居らず、ホワイトやグレーに染まった景色が広がるのみ。現実世界とは明らかに違う異質な空間だ。けれど大森の表情には驚きはなく、どこか落ち着いていて懐かしんでいるようでもある。しばらくして大森は、ポツンと置かれたどこでもドアのような白い扉に出くわすと、戸惑うことなくガチャリと開け、「ホワイトラウンジ」に足を踏み入れた。

「ドアを開けたら 何かが変わるのか」
『The White Lounge』の歌詞冒頭は「ドアを開け"たら"」と仮定し、「変わる」と言い切っていない。だが、何かが変わることを期待しているから、何かを変えたいと思っているから、大森はドアを開けたのだろう。そもそもドアは、今いる場所から別の場所へ繋ぐ境目に存在し、ドアを開ける行為自体も新たな場所へと向かう決断を意味する。かつ、歌い方も力強く張り上げるようであった。したがって大森は、ホワイトラウンジで新しい何かに変わろうとしていると推測できる。


完璧には変わらない?

変化の物語と踏まえた上で、#1マスカレイドをちょっと飛ばし、#2水と影のセクションについて考えたい。#2水と影は、冷蔵庫からウォーターボトルとグラスを取りだすことから始まり、仄暗いステージの上で、ゆったりとした動きで踊ったり、水をグラスに注いだりと(水の動きと性質をしつこく描写)、まさに「水と影」を感じさせる演出であった。
水は流動的であり、環境によって形を変えるもの。そこで『Folktale』の歌詞、「変わりたいな でも変わりたくないな」を踏まえると、#2水と影における「水」は変化の象徴として捉えることが可能である。「影」は水に映る自分の姿(=大森)として想像すると、水(=変化)に伴うネガティブな部分や、後ろ向きな気持ちを表しているのではないのだろうか。

また冷蔵庫内に大量のウォーターボトルが見えることから、これら一連の動きが大森の毎日のルーティンだと認識できるとともに、心の中も「変わりたい」と「変わりたくない」を反復する日々であることがうかがえる。そんな曖昧さを踏まえると、まるっきり新しい何かに変わる、という物語ではないのかもしれない。

途中で2階に上がり本(歌詞が書いてある?)を読み出して、それをパタっと「閉じる」行為がクローズアップし強調されていたが、大森の閉じた心のうちを表現しているようだった。そしてラスト、変化を象徴する水を冷蔵庫に再び戻して「閉める」行為は、変化することへの躊躇いや拒否としても捉えられるだろう。


ホワイトラウンジでの過ごし方

ここで#1マスカレイドに戻る。マスカレイドの意味は、仮面舞踏会、見せかけ、~のふりをする、などである。このセクション名通り、大森を除くラウンジの全員が仮面を付けている。大森もホワイトラウンジという「仮面舞踏会」に参加した以上、その場のルールに従う必要があると言える。つまり変わりたい・変えたいことがある大森は、ホワイトラウンジという名の「仮面舞踏会」に参加して、見えない仮面を付け、何か/誰かのふりをして過ごさねばならない、ということだ。


前世の記憶?

その後、各セクションに登場する大森は全て同じ人物のように見えるが、細かく見ていくとスタイルや生きた時代が実は少しずつ異なっていることがわかる。

#2水と影『Folktale』
・ハットなし+ジャケット(ボタン外し)+緩めネクタイの「大森1」

#3手紙(過去との会話)『君を知らない』大森は過去に別れた女性1にタイプライターで手紙を書く。『ダンスホール』
・ハットあり+ジャケット(ボタン外し)+締めネクタイの「大森2」

#4反射『ツキマシテハ』
・ハットなし+レインコート(脱ぐ)+ベストの「大森3」

#5愛という種『Coffee』大森と付き合っている女性2(スマートフォンを使用)が絶妙にすれ違った会話をする。『ニューマイノーマル』女性2にプロポーズ、成功?『PARTY』
・サスペンダー+眼鏡の「大森4」

#6青さのカケラ『春愁』『Just a friend』大森が恋人未満の女性3とお出かけ、想いは実らず。『Attitude』
・フーディの青年「大森5」

#7虚構と虚無『Feeling』『ケセラセラ』『soranji』
・シルクハット+タキシードの「大森6」

#8僕の一部『The White Lounge -reprise-』
・ハットなし+白スーツ

このように、セクションごとに大森の服装に変化をつけ差別化を図ることで、見た目は似ているがそれぞれ別人の大森だということを表していると言える。また、時にタイプライターで手紙を書き、スマホを使用していることから、セクションによって時代も異なっている。したがって、生きた服装や時代が異なる「大森」たちのエピソードは、ホワイトラウンジにやって来た「大森」が持つ前世の記憶だとすれば納得がいく。例えば、場面の切り替わりで目を閉じるのは、大森の中に眠る前世の記憶を引き出すことで、前世の大森の「ふりをして」記憶を追体験するためだと言える。(一呼吸おいて、演じるぞ、みたいな)

ホワイトラウンジはどこにある?

そして多くの人が指摘している通り、ホワイトラウンジは生と死の境目に存在すると考えられる。おそらく、前世の記憶を整理し、次に生まれ変わるまでの繋ぎとしての空間をホワイトラウンジが担っているのではないのだろうか。そう考えると、以前にも大森はホワイトラウンジに来たことがあり、何度も生まれ変わりを経験しているのだと思う。既に色んな人生を経験し、転々としているからこそ、冒頭の落ち着いた様子も、どこから来たのか答えられないのも納得である。また、大森がホワイトラウンジで「変わりたい・変えたいこと」の意味は、新しい自分への生まれ変わりとも言い換えられる。


スーツケースの中身

大森が持っていたスーツケースの中身であるが、前世の記憶が入っていると推測する。基本的にスーツケースは一時的な持ち運びに使用するもので、長い間開けずに手元に置いておくものではない。いつかは手放さなければいけないものだからこそ、大森はスーツケースをホワイトラウンジに預け、スーツケースの中身=前世の記憶を解放するつもりだと言える。


上手くいかない恋愛だらけ?

スーツケースに詰めた前世は、大森にとって特に忘れられない記憶が集められているだろうし、どこか統一性もある。一つは、大森と女性たちとの恋愛である。実際のところ、 9つのストーリーの中で恋愛エピソードは3つだけであり、大して多いわけではないのだが、どれも印象に残っている。その理由は、大森と女性たちとの関係が全て上手くいっていないことにあると思う。上手くいっていないとは、別れていたり、付き合えなかったり、すれ違ったりということである。


想いを伝えない「大森」

ではなぜ上手くいかないのか。それは大森が、本当の気持ちを相手に直接伝えないからだと推測する。全編通して、大森は女性たちに「好き」も「嫌い」も直接的な言葉を一切言わず、何か相手に思うところがあっても心の中で秘めているままなのだ。その分、女性たちと衝突することもないが相手との溝は深まるばかりで、大森の演技からはお互いのズレから生じた寂しさ、もどかしさ、後悔を常に感じさせている。気持ちを伝えないから上手くいかず、寂しくなることは前世で学習済みのはずなのに、どの時代の大森も同じことを繰り返すのだ。大森は何度生まれ変わっても、恋愛における女性との関係が噛み合わず、孤独を味わっている。以下、セクションごとに想いを伝えない「大森」を見ていく。

#3手紙(過去との会話)の『君を知らない』では、セクション通り「過去」に関係があり、すでに別れた女性1に向けて想いを乗せた手紙をタイプライターで書いているとわかるが、おそらく実際に手紙は送っていない。女性1(金髪ロング&白いドレス)が登場する際に、女性1は手紙を持ち、手紙を読んでいる別撮り映像も挿入されるのだが、なぜか曲終わりには手紙が大森の元に戻っているのだ。つまり全ては「過去」の女性1に手紙を読んで欲しい=僕の想いを知って欲しかった、という大森の幻想と言える。(踊り自体も大森が女性1を導かせるような振り付けで、相手が自分の想いを知る/気付くように誘導しているようだった) セクションに「過去との会話」とあるように、手紙の内容は別れた当時、女性1に大森が本来言いたかったことであるが、それは時を超えて「過去」の女性1に手紙を送る以外に不可能であるため、女性1が手紙を読んでいる映像は現実ではない。

そうなると、女性1が本当に金髪ロングで白いドレス姿の「女性」であったのかも疑わしくなる。記憶自体、時間が経てば曖昧になるもので、隠したい・忘れたい記憶ならば事実に妄想が混ざり、全く異なった記憶を作り上げてしまう。だからこそ、大森が本当に金髪ロングで白いドレス姿の「女性」と付き合っていたのかという点も謎が残るのだ。このように全編通して、大森の記憶が事実と異なる可能性は大いにあると言える。本来であれば長く複雑な人生を断片化している時点で、大森が忘れたい事実は隠し、編集されたものを観客は見ているだけかもしれないのだ。(もちろん、言い出したらキリがないが)

#5愛という種における『Coffee』では、2階バルコニーで女性2と大森がブラックコーヒーを飲みながら、イマイチ噛み合わない会話をする。そんな状況に大森は何か言いたげな顔をしつつも本音を伝えることはない。女性2はブラックコーヒーが苦手なようであまり飲めずに眠ってしまうと、大森はブランケットをそっとかける。曲中、コーヒーカップを取り入れたダンスを仲睦まじく踊る男女が現れ、寝ている彼女をよそにその様子を愛おしくバルコニーから見つめる大森は、のちに男女の間に割って入ってコーヒーカップを受け取る。

『Coffee』で大森が、「愛という種」を育むために「苦味という 傷とまた違う 心を養わなきゃね」と歌うが、女性2はブラックコーヒー(=苦味)を嫌がり、家庭菜園で育てたキュウリを「この前のキュウリはなんで苦かったんだろうね?」と発言し、「苦味」に対して消極的な態度を取る。つまり、大森からすれば「愛という種」を育む一要素である「苦味」を女性2はとことん避けるのだ。したがって、2人は「愛という種」を育めておらず、どこか停滞した関係と言える。だからこそ大森は、コーヒーカップ(=苦味)と共に生きる愛に満ちたカップルを遠くから羨望の眼差しで見つめていたのだ。けれど、そんな気持ちを大森が女性2に伝えることはない。

『ニュー・マイ・ノーマル』では冒頭に、大森がバルコニーで眠る女性2に電話をかけるが出る気配はない。大森は「伝えたい言葉は、いつも言葉にならない。なぜだろう。伝えたいことはわかっていて、ここにあるはずなのに」と発する。まさに今まで指摘してきた「気持ちを直接伝えない大森」である。この場合、「伝えたい言葉」が何であるかは明確ではないが、またも大森は伝えたら関係が一歩前進する可能性があるにも関わらず伝えないことを選んでおり、やはり潜在的に伝えること(=深い仲になること)を避けているとしか思えない。

曲終わり、大森が女性2にグッと感情を込めつつ指輪を渡すが、「結婚してください」など直接的な言葉は言わず、無言である。女性2は「ありがとう」と言い大森が「こちらこそ」と返すことで、一応プロポーズは成功したようだ。しかし、プロポーズが醸し出す幸福感であやふやになっているものの、『Coffee』でのすれ違いは全く解決していないし、今後も違和感のある女性2と上手くいくのかという疑問は残る。

#6青さのカケラの『Just a friend』では、若井に振られた女性3に誘われて一緒に買い物へ行く大森。大森は女性3のことが気になっているらしいが、そもそも女性3は若井のことが好きなため、大森は最初から「叶わない恋」をしている。だがそこで、大森が勇気を出して「好きです」「付き合ってください」と女性3を振り向かせることもなく、デート中も心の中に秘めているばかりで想いは実らず、またひとり溜息をつく。


なぜ想いを伝えないのか?

これまでセクションごとに、大森が女性たちに想いを伝えない様を振り返ってきた。だが常に大森は心の中で様々な想いを巡らせていて、自分自身が「伝えたいことはわかって」いる。それでも頑ななまでに想いを相手に伝えないのは、「言わずともわかってほしい」という願いが大森の中にあるからではないだろうか。いつも自分ばかりが深く考えていて、そのことに相手は気づいてもくれないし気にもかけてくれないと思っているのかもしれないし、言わずとも分かり合える関係が良いと思っているのかもしれない。もしくは、こんなにも伝えているのにいつも伝わらないと思っているのかも。

他にも、作中で明示されていないが隠された「わかってほしい」想いがさらにあるのかもしれない。何が原因で想いを言えずにいるのか(言わないでいるのか)という点についてはぼかされており、答えは鑑賞者それぞれに委ねていると言える。


クィア・リーディング(*1)を試みる

まず個人的な話だが、私がこの映画を観終わって最初に思ったことは「異性愛の連続だな~」である。けれど「一般的な異性愛」にあるとされがちな色気とかいうものはサッパリだし、(色んな人が観る映画だからであるが)セクシャルな場面は一切ない。つまり、「多くの人」が共感しやすいとされる「一般的な異性愛」のフィルターを通して(に見せかけて)、核の部分では人との関わりで生じる普遍的な問題を表現しているように見えた。伝えたいけど伝えられないとか、伝えなくて後悔したとか寂しくなったとか、伝えなくても分かって欲しかったとか、きっと「一般的な男女の恋愛」以外でもあることだと思う。そのように考えた場合、「異性愛」に限定した話ではないと言えるのだ。

繰り返しになるが、大森は女性たちに想いを伝えない。もちろん、言いたいなら言えばいいし伝えたら上手くいく可能性だってあるが、必ず躊躇う。一つの可能性として、女性と深い関係になることを潜在的に恐れている、ということを挙げたい。恐れているというちょっと大袈裟かもしれないが、一度言葉にしたら相手と繋がれてしまう可能性があるからこそ、それを無意識的に先回りして避けているのだとも捉えられる。これをセクシュアリティの悩みとして捉えるのは強引だろうか。(※もちろん、映画の大森元貴は実際の大森元貴とは別の人物として捉えることが前提であり、大森自身のセクシュアリティの話ではない)

先ほど、「作中で明示されていないが隠された『分かって欲しい』想い」があるのではと述べたが、それがセクシュアリティの話という可能性もある。また前述の、「記憶自体、時間が経てば曖昧になる」「隠したい・忘れたい記憶ならば事実に妄想が混ざり、全く異なった記憶を作り上げてしまう」「本来であれば長く複雑な人生を断片化している時点で、大森が忘れたい事実は隠し、編集されたもの」を見ているという考えを踏まえると、「異性愛」に見せかけつつ、実はセクシュアリティにおいて抑圧している・隠していることがあるのではないだろうか。だからこそ、全てが「異性愛」に限った話だと言い切ることは難しいのだ。

したがって、セクシュアリティの話として捉えた場合、大森は自身のセクシュアリティに対して悩みがあり、そのことに気づいているけれど、認められず、隠し続け、そんな状況から「変わりたい」と思いつつも、女性との出会いと別れを繰り返しているのではと思う。

例えば、#3手紙(過去との会話)の『君を知らない』で登場した女性1も現実でないならば、相手が男性である可能性もあるし、さらに別の何かもしれない。

他にも、#5愛という種の『Coffee』で、大森が愛おしく見つめていたのは本当に「男女」カップルだろうか。視線の先には男性のみ(かその両方)に対する羨望の眼差しがあったのかもしれないし、大森が男女カップルの間を「裂く」行為だけに注目すれば、異性愛規範への反発と捉えられる隙もある。大森がコーヒーカップを受け取り、それを女性2と分かち合うことをせず1人で「苦味」を味わう様子も、今と別の恋を求めているということかもしれないし、女性と上手くいかないことに対する諦めかもしれない。

#6青さのカケラの『Just a friend』でも、そもそも「叶わない恋」をしているし想いを伝えられずに終わる。(これは細かい指摘だが、大森が歌う「彼が振り向いてくれないからといって 嫉妬させるための作戦を練る」の歌詞。大森の目の前にいるのは「彼女」だが、「彼」を振り向かせたいらしい。演出の都合上、女性3ではなく大森が歌うからこそ、そうなるのはわかるけれど)

以上、私なりにクィア・リーディングを試みてみた。そもそも、この映画は明示されないことが多いからこそ、どのようにも受け取れる。だからこそ、セクシュアリティの話だと捉えられる余白はあるし、実は見かけ以上に異性愛規範には縛られていないのかもしれないのだ。

 

『Attitude』~「#7虚構と虚無」を考える

#6青さのカケラのラスト曲『Attitude』は、青年・大森の覚悟を描いたように見えた。1つ前の曲、『Just a friend』では女性3に想いを伝えず独りになったわけだが、そんな自分と折り合いをつける覚悟を決めたのではないのだろうか。『Attitude』の出だしは静かに始まり、大森もポケットに手を入れる仕草をしていたり、周りの賑やさに引いていたりと、先ほどのオドオドした内気さが出ていた。だが、2番からは自転車に2人乗りしたり(1番では自転車が来てもスルー)、他者と関わる様子もあって外向的になっており表情も明るく、曲調も原曲以上に賑やかにポップに仕上がっていく。

しかし、「この世は弱い人ばっかいます」「平気なふりをして隠れてるわ きっと」の歌詞では、またポケットに手を入れて上目遣いでオドオドした感じをちょろっと出していた。完全に外交的な人になったわけじゃなく、大森自身も「弱い」部分があるのだとアピールしているようだった。裏側を隠しながら、それをたまに見せながら、生きていくことにしたんじゃないだろうか。

このように、『Attitude』は大森の中にある孤独や悩み、伝えたいけれど伝わらない想いを明るく昇華させる段階が描かれており、それは「表現者」という職業と共通する部分がある。だからこそ、次のセクション#7虚構と虚無が劇場で歌い踊る仕事をする大森だとすれば、#6青さのカケラ(=青年時代)のラストでは、青年・大森が将来の生き方を決めた瞬間とも言える。


ラストに向けて

#7虚構と虚無で『ケセラセラ』を歌い切った大森が、しばらく余韻に浸っていたい表情を見せていたものの、周囲のスタッフたちは「お疲れ様でした」と早々に撤収作業を始めてしまい、その温度差に戸惑っていると一瞬にして独りぼっちになってしまう流れは印象的である。常に大森と周囲の間には溝があるのだと感じさせられるし、いくら華やかに着飾って沢山の人に囲まれていたとしても、結局は独りなのだとわかる。けれど、それが考え方の違いによるものなのか、想いを伝えないことによるものなのか、表現しているのに伝わっていないと感じているからなのか、またはセクシュアリティによるものなのか、何に起因したものかはわからない。

次に歌う『Soranji』の大森は、先ほどステージで華やかに歌い踊っていた大森と同一人物であるにも関わらず、「煌びやかに魅せる」こととは真逆の姿で、ギャップを強く感じさせた。#6青さのカケラ『Attitude』で全てをポップな表現に昇華する覚悟を決めつつも、やはり隠しきれない「弱さ」が垣間見えた瞬間であっただろう。だが、そんな自分をも受け入れて認めようとする姿が『Soranji』では表現されていた。曲の始まりこそ暗いものの、ステージに段々と白いスモークと眩いライトが増し、まさに希望を見出していく段階を描いた演出だったと言える。


結局何かが変わったのか?

私は冒頭、この映画は「変わりたいと願う物語」だと結論づけることから書き始めた。結局のところ何かが変わったのだろうか。実際、#8僕の一部『The White Lounge -reprise-』は、#1マスカレイド『The White Lounge』と明らかに異なる穏やかな歌い方と表情であったことから、大森の内面に何らかの変化があったことはわかる。セクション名通り、弱さも孤独も寂しさも何かも「僕の一部」だと受け入れられるようになったと言える。

最後のセクション、#9終わりの始まり『フロリジナル』では、今までのセクションで演じられたシーンが再現されているのは見ての通りだ。その様子を穏やかに見つめる大森の眼差しは、わだかまりのあった過去を外側から客観的に眺められるぐらいには気持ちが前向きに変化したことを表しているのだろう。

けれど、最初に「完璧には変わらない?」と曖昧さについて述べたように、何もかもまるっきり新しい自分になろうとするのではなく(そんな必要はないし、不可能だからこそ)、過去の自分を認め、周りからの愛に気づき、受け止め、全てを引き受けて、次に進むということを示していると感じた。おそらく忘れるとか、消し去るとかネガティブな変化の仕方ではない。

それでもやはり、大森がなぜ変わりたいと願ったのか?何を悩み、隠しているのか?いつも想いを口にしないのはなぜなのか?などなど疑問は尽きない・・・しかし結局のところ、それは分からないのだ。観客が自由に考えることが出来るようあえてぼかして描いている部分もあるだろう。これだけ長々と書いておいてそれ?っていう曖昧な結論になってしまったけれど、分からないことをグルグルと考え続けるしか我々にはないのだろうなと思う。答えを出すということは難しい。

思ったこと

『PARTY』で赤子を抱く仕草〜。
『ダンスホール』で3人が踊るシーンはキュートさに溢れていて笑ってしまう。
そもそも『Just a friend』は同性愛としても捉えられると個人的に思う。
ホワイトラウンジの異世界感、ツイン・ピークスの赤い部屋みたい。
パンフレットを読んで、分かり合えないつらさだけを表現しているわけじゃないんだなって思った。愛を感じたいという想いがあるからこそ、寂しい孤独だけではない。あたたかな孤独があるのだと。
#1マスカレイドでスマホを使う女性。
涼ちゃんの演奏シーン、全てが良かった。


(*1)「クィア・リーディング」
「クィア・リーディングとは、ごく単純化していえば、『女性は男性を、男性は女性を』という異性愛の枠内に収まらない性愛のありかたに注目する作品読解の方法である」
阿部幸大「Official髭男dismの大ヒット曲「Pretender」を同性愛から読み解く JPOPと「クィア・リーディング」の可能性」『現代ビジネス』講談社https://gendai.media/articles/-/66965# (閲覧日 2024年10月8日)





 

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