【2004-2024】私と関ジャニ∞の思い出
関ジャニ∞との思い出をブログで綴ったフォロワーに触発され、私もひとつ筆をとってみることにした。
といっても大体おぼろげかつ誤認している記憶も多いため、正しいか正しくないかは一旦無視してお読みください。だいたいこれくらいの時期はこうだったんだな、くらいの感じでよろしくお願いします。あとなんかすごい文字数になっちゃったし、全面的にただの自分語りなので読み飛ばしてもらって大丈夫です。
2003
私が関ジャニ8(当時の表記)を初めて見たのは雑誌『duet』。クリスマス前に発売された号だったので、当時掲載されていたアイドルは大体みんなサンタかトナカイの格好をしていて、当然関ジャニ8も例外ではなかった。
チャラさとオラつきを隠しきれないKAT-TUNサンタのず~っと後ろ、かなり後ろのほうのページに彼らは載っていた。
記憶の限りでいうと村上さんとすばるがサンタのコスプレ、まるちゃんは雪だるま、安田さんはツリー、横山さんはトナカイの着ぐるみをそれぞれ着用していた。大倉さんもトナカイとして四つん這いになって背中にすばるを乗せていて、彼らの扱いがズバリ「イロモノ」であることは初めましての私にも第一印象としてバッチリ伝わった。
なお、このとき錦戸さんと内くんはNEWSのほうのページに載っており、関ジャニのページには不在だった。関ジャニがデビューしてしばらく経つまでこういうことはよくあった(なんなんだ)。
2004
そんなイロモノ集団であっても私は漠然と彼らに好感を抱いていた。そう簡単には倒れないようなしぶとさを見ているとそれだけで元気が出た。まあ当時一番好きなのは赤西仁だったけど。
東京在住の中学1年生だった私にとって、大阪は遥か遠くの異国。関ジャニも当然遠かった。東京のアイドルに感じる遠さとは種類が違う。
少クラには時々ゲストとして顔を出してはKAT-TUNより目立とうと頑張っていたが、それも毎月ではなかった。東京で初めての冠番組「裏ジャニ」が始まったのはこの年の春だったが、親の理解が得られなければ深夜0時過ぎの私にチャンネル権などあろうはずもなく、有効な情報源といえばネットと雑誌のみ。ジュニア情報局は「ハガキをいっぱい送る」という手続きが訳わからなすぎて入会のハードルがアホみたいに高かった。
しかしそうこうしている間に彼らは関西限定デビューを果たす。
その頃のAmazonは未開の地だったので、当時一人だけいた関西在住の友人に頼み込んでCDを送ってもらうことにした。かくして小さな段ボール箱で届いた関西限定盤の『浪花いろは節』は、今思えばなんともチープなジャケ写だけれども、確かに感動した覚えがある。こんなに遠くから私宛てに荷物が届くこと自体、生まれて初めてだったことも大きい。
一応デビューはしたけど扱いはほとんどジュニアのままで、当時の彼らは今考えてもよくわからんポジションに立たされていた。若手3組の合同ファンクラブ「You&J」が発足する2006年くらいまではふわふわしてたのだが、初心者の私はまだ特にそこらへんは気にしてなかった。
2005
KAT-TUNとの二足のわらじで関ジャニ∞(8が横に倒れた)を応援していたが、少しずつ関ジャニのウェイトが大きくなりはじめたのはこの年からだった。当時は『ごくせん』の効果が大きく、私が通っていた中学校では圧倒的に仁亀が流行っていて、次点で嵐、その次がNEWSで、関ジャニなどはまだまだ知られてすらいなかった。
また、中学生特有(?)の独占欲強めな先輩が部活におり、彼女は自分以外のカツン担へ敵意をむき出しにするタイプだったので、中丸担だった先輩は増田担を、赤西担だった私は安田担を名乗ることで難を逃れ、気付けば私はそのまま安田担になっていた。家でBSが見れない先輩へ媚びるために軽率に渡した少クラのVHSと浪花いろは節のステッカーは、もう帰ってこない。
夏休みの数日前、ひと悶着あって内くんが表舞台から姿を消した。
当時の状況について覚えていることはもはや少ないが、あのとき彼の周りにいた大人は全員最悪だと思ったし、お酒というドリンクや飲み会文化そのものを憎みさえする程度には私も厨二病だった。周りの大人たちの当時の年齢に近づいた今改めて考えてみても、やっぱり最悪だとしか思えない。
松竹座と城ホは相変わらず遠い。遠征するようなお金も勇気もなかった私にとって、3rdシングル『好きやねん、大阪。』の握手会が初めての「関ジャニ∞の現場」となった。始発に乗って国フォに並びやっと会えた安田さんは紫色のニット帽をかぶっていて、テレビで見るよりずっと彫りが深く、鼻が高くて、ただただカッコよかったのを覚えてる。横山さんは私が退場する瞬間まで目で追ってくれた。よほど挙動不審だったのかもしれない。
2006
学校では相変わらずジャニーズが大人気だった。
ごくせん・anego・がんばっていきまっしょい・ドラゴン桜・1リットルの涙・野ブタをプロデュース・クロサギあたりで当時の若手の誰かしらにハマり、You&Jをひと通り好きになるというパターンが比較的多く見られた。
このころの関ジャニは錦戸さん以外それほどドラマに出てなかった。しかし同世代の盛り上がりもあってか1年前よりも校内での認知度が上がっていて、私の学年にもついに関ジャニ担が爆誕した。普段は「たちょ♡たちょ♡」とはしゃいでる彼女は、ひとたび機嫌を損ねると授業中でも己の筆箱の中身を床にぶちまけて悪態をつきまくるモルペコみたいな人間で、以来私は恐ろしくて大倉さんのことを「たっちょん」と呼べなくなった。
初めて足を運んだ関ジャニのライブはまさかの「すばくらコン(渋谷すばる with 大倉BAND)」。正直このときの記憶は全然ないのだが、大倉さんがすばるの無茶振りにより『僕の実家は焼き鳥屋』という即興ソングを歌わされ、まあまあ嫌がってたのだけは覚えてる。
鳥貴族は当時ほとんどの店舗が関西にあり(わずかだが東京にも進出はしていた)東京の中学生からすれば「松竹座とか城ホに通える関西のオタクのおねえさんが行ける場所」。気軽に行ける人がうらやましかった。
今や大倉さんも実家ネタに抵抗がなくなってて(?)時の流れを感じる。
2007
正直オバロクが出たあたりから(いつまで大阪ソング続くん?)とは思ってたが、『ズッコケ男道』で路線がちょっと変わったのは嬉しかった。何がきっかけかは知らないけど一般にもまあまあ定着し、いつしか「関ジャニのオタクが友達とカラオケ行ったら勝手に入れられる曲No.1」に。このあたりから明確に追い風を感じはじめた。
高校で入ったクラスには丸山担と内担がおり、教室内はいつの間にか「嵐か関ジャニ」の2強になっていった。関ジャニも急に人気が上がったけどそれ以上に嵐の勢いがすごかったな。今となっては(?)絶対ダメなイジり方も多いので詳しくは割愛するが、『うたばん』で安田さんの一挙一動がイジられまくりのウケまくりだったのもそういえばこの年だ。おいしい思いをして嬉しそうな安田さんのギャルみの強いビジュアルが私は好きだった。
そして2007年といえば47ツアー。彼らが初めて単独で東京ドームに立った年である。私は運よく8月5日の公演に入っていて、ダブルアンコで7人が内くんを引っ張り上げたのを目撃した民の一人だ(オタクとしての私の数少ない自慢である)。一人で入った現場で人目も憚らずダバダバ泣いた。
内くんをステージに上げたのは7人の独断だとしても、事務所的にガチNGだったらトリプルアンコには絶対出させなかっただろう。それなのに8人で出てきたし、なんならオフィシャルの写真集にも載った。だからいずれ帰ってこれるんだろうなーって当時は割とガチで信じていた。
2008
が、まあ帰ってくる気配はない。大倉さんの「8→1」が心の支えだった。
なぜか映像化されなかった夏のツアーでは、『ラスフレ』の好演によりいろんな意味で名を上げた錦戸さん(宗佑)が、当時『ヤスコとケンジ』に出ていた大倉さん(椿くん)を無茶苦茶に殴る蹴るというトラウマ演出がやたら脳裏にこびりついている。春もアリーナツアーがあって、エイトレンジャーのストーリーがまあまあ闇深かったのを覚えてる。どういう記憶力?
エコ特番もこの年だった。横山さんが牛のゲップを嗅いだり、大倉さんが天ぷら屋さんの廃油をバイクの燃料にしたりしてたのは覚えてる。
あと大量に呼び集められた芸人軍団が会場外でチャリを漕ぎ、ステージ上の関ジャニが『fuka-fuka Love the Earth』を歌うための電力を作る というよくわからない企画があり、汗だくでチャリを漕ぎまくる必死の形相に社会の縮図を見た気がした。なんか変なとこばっかり覚えてるな。
2009
大学受験を控えたこの年、私のアイドル熱はみるみる低下した。
実際勉強に力を入れていたのかというとそうでもないはずなんだけど、とりあえず「それどころじゃない」という焦りだけは人並みにあったようだ。バイト禁止の高校生なりに、ここまでのシングルとアルバムはすべて購入していたのだが、2009年の冬でそれも途切れてしまった。
3日連続で発売されたシングル『GIFT ~白・赤・緑~』のせいである。
年末でただでさえ金欠の私にはどれか1枚だけ買う余裕すらなく、というか受験勉強も大詰めで情報をうまくキャッチできておらず、なんかもう……いいや……となってしまった(そこは諦めないでほしかった)。
よそのアーティストさんの売上に負けるのではなく、わざわざ自分たちの手でオリコン1位連続記録を途切れさせた謎回。いったいこの施策の意義とは何だったのか、今でも不思議に思う。
2010 - 2013
楽しすぎた大学生活。楽しすぎてジャニーズを追う余裕がなかった。
4万番台とかそれくらいだったYou&Jの名義もあっさり失効。テレビをつけて偶然彼らが出てたら「おっ、見とくか~」って感じ。4年間で私の記憶に残っているのは主に以下のシーンのみ。時系列はよくわからん。
テレビつけたらたまたま音楽番組やってて、関ジャニがバンドで出てきた。オブラートに包んでも包みきれない演奏に愕然とする(全員でのバンドを地上波で披露したのはその日が初だったことを数年後に知った)。
焼きそばみたいな髪型の安田さん。どうしちゃったの?と思った。
ハーフハゲの安田さん。どうしちゃったの?と思った。
シャンプーのCMに出ているエイトレンジャー。
掴むところのない壁にへばりついて必死に耐えてるメンバー(TOREかなんかだと思う)。がんばれって思いながら見てた。
music.jp の変なCM。どれも好きだった。
例外的に『夜ふかし』だけは初回からけっこう家族で見てた。
最初の頃は2人きりのトークバラエティみたいな性質もちゃんとあって、マツコが老後の漠然とした不安をぼやいたり、村上さんがツッコんだり、マツコがちょこちょこデレたりしてて、ちょっと温かい雰囲気があった(変なVTRとか雑なイジりが増える前のことです)。
2013年秋。そこにゲストとしてやってきたのが、金髪+白ニット+短パン+キラキラの安田さんだった。未だに焼きそばとかハーフハゲが続いてると勝手に思ってたので、本当に、本当に、びっくりした。天使すぎて。
めっちゃくちゃかわいいんだけど、自分がかわいいのを完全にわかっている感じもあって、村上さんもマツコも(こいつ…あざとい…!)みたいな顔してた。自分のかわいさを知ってる人が見せるかわいさって本当に強い。私はこの日の安田さんに沸いたことを理由に、部屋にまだ残していたグッズ・雑誌などの処分を見送ることに決めた。もしかしたらこのあと我が身に起こる何かを薄々予感していたのかもしれない。
2014
新卒1年目。就職先は泣く子も気絶するほどのブラック企業だった。
入社から3ヶ月と経たずしてすっかり闇堕ちしかけていた私のカメラロールは、すごい勢いで関ジャニ∞の画像に埋め尽くされていった。本能が癒やしを求めていたのである。「かわいい 安田章大」とかで検索して出てきた画像を見てひたすらニマニマしてた。
当時の私を慰めてくれたのは、家族でもなく友達でもなく彼氏でもなく関ジャニ∞だった。「とりあえず3年続けろ」とか「とにかく頑張れ」とか、無責任かつ聞くだけ無駄なアドバイスを一切言わずに笑ってる、彼らの明るい背中こそが心の支えだった。無責任ヒーローなのに全然無責任じゃないのよ。
夏。当時の彼氏に別れを告げたその足で郵便局へ駆け込み、ファンクラブの入会手続きをした。You&Jが消滅してたことには驚かなかったが、未だに振込用紙を使うシステムだったのには驚いた。
十祭のチケットは必死に掲示板を探したけど見つからず(チケ業務の主流は今や掲示板ではなくTwitterのお譲りタグであることには後日気付いた)結局舞台『ジュリエット通り』および『関ジャニズム』のドームツアーから本格的な私の出戻りオタ人生がスタートした。
私が離れてる間に「8→1」はもうなくなっていて、それはいつからなのか、何がどうなってそうなったのか、気になってヤフオクで『Dear Eighter』を競り落としたりしながら一つ一つ後追いする日々だった。正直8周年を逃したのはデカすぎる。パッチもリアルタイムで味わいたかった。
冬。私がブラックだと思っていたそれはただの薄墨で、本当のブラックはここからだぞと言わんばかりに会社が地獄と化してきた。このころの私は蕁麻疹に襲われたり、倉安の『パンぱんだ』を毎日10~20回はリピートしないと眠れなくなったりと生活にも支障が及んでいたため、さすがに転職を決意した。第一志望はもちろん「水色のアイスクリームのおうち」だ。
2015
勢いだけで別業界へ転職。本当は行きたい会社が明確に決まっていたのだけど、そこへ行くにはまだ早い(面接で落とされる)気がしたので、まずは同じ業界で修行してみることにした。結果としては成功。労働時間は多少増えたけどブラックではなかったし、後のキャリアにつながるスキルの下地をある程度作ることができた年。
冬のビル風に吹かれながらの『ふりむくわけにはいかないぜ』には超しびれたし、繁忙期でめちゃくちゃ残業してたときは『Your WURLITZER』に励まされた。少なくともパンぱんだを毎日20回リピるよりは健全な人生である。
この年、関ジャニ∞もノリにノッていた。春から関ジャムとクロニクルがスタートし、特にクロニクルのほうはドッジをはじめとした神企画を連発してたし、倉橋ラジオが始まったのもこの年だった。楽しかったなあ。
2016 - 2017
上述の「行きたい会社」の面接を受けたら意外と通ったので、喜び勇んで2度目の転職。その翌年には初めて札幌へ遠征した。お金と勇気がなくて新幹線にも乗れなかった中学生の私が知ったら、きっと喜ぶだろう。
好きな会社に入れた。残業が減り時間にも余裕ができた。昔あんなに憧れていた鳥貴族にはいつでも行ける。夜行バスや新幹線で名古屋・大阪にも行ったし、飛行機で札幌や福岡に行けるようにもなった。それでも私には「松竹座に行けなかった」コンプレックスがずっと残り続けている。
2017年といえば『俺節』の年だった。
人生でもう一度見たいステージは何かと聞かれたら、おそらく私の答えは俺節一択だろう。安田さんの芝居はとにかく鬼気迫っていた。彼の身体には二度と2017年を繰り返させたくないが、あの芝居をもう一度見てみたい気持ちも抑えられない。今からでも遅くないから円盤化してくれ。
2018 - 2020
脱退に次ぐ脱退。地獄と希望を繰り返し、ようやく夜が明けたかと思いきやそのままコロナ禍に突入した。地球なんなん?
この時期の心境は以前ブログに残したので省略(事務所がゴタゴタしだしたのを理由に非公開にしましたが、内容を整えていずれ再公開します)。
2021
まだドーム規模の公演は難しいとのことでアリーナツアーが決まった。
4年半ぶりのアルバムは名曲揃いだし、ツアーがある時期は毎日楽しくて幸せだ。自分が入ってなくてもMCレポでずっとヘラヘラ笑っていられる。
真駒内へ行くついでに実家にカニでも送ろうと思って二条市場に寄った。私が東京から来たことを知ると、魚屋のおっちゃんが「わざわざ札幌まで観に来てくれるなんて、関ジャニさんは幸せ者だねえ」としみじみ言ってくれた。公演後タクシーに乗ると、こんどは運転手のおっちゃんも「札幌にこんなに人がいるのは久しぶりだよ」と上機嫌に笑っていた。
すでに他のアーティストもアリーナ級のライブを解禁していたはずなのだが、他でもなく関ジャニの客の動きを見てそう言ってくれたのがなんだか無性に嬉しかった。私たちを直接喜ばせることだけじゃなくて、地元の経済をさりげなく回すことにも、彼らが全国をまわる意義があるのだと実感。たとえお世辞だとしても、関ジャニの客であることが誇らしくなる。
2022
でっけえでっけえスタジアム公演が決まり、メンバーもオタクもみんな悪天候に怯えていた。結果なんとか公演できたし、私は勢いのまま日産・長居の全公演に入ってしまった。悔いはない。掲示板をいくら探せど味スタのチケットを見つけられなかった8年前の無念はやっとここで成仏させられた。
長居ラストの発表から待ちに待ったドームツアーの初日。
センターステージに5人が出てきて、満を持しての『歓喜の舞台』を歌いだした瞬間、そろりそろりと遠慮がちに響いた客席の歓声。でも彼らの耳にはちゃんと届いていて、安田さんは静かにぽろぽろ泣いていた。
声出しが解禁されたといっても一体どの程度までの歓声が許されるのだろうか。なんとなくずっと頭の片隅で迷いながらPayPayドームに集まったオタクたちの、遠慮と躊躇のかたまりみたいな歓声が私はとても好きだった。公演を重ねるごとに遠慮が少しずつ解けていくのも愛おしかった。
2023
ドームツアーを終えた5人は申し分なく好調。
しかし初夏くらいから事務所のほうがガタつきだして、あれよあれよという間になんかもうどうしようもない状況になっていった。
一部のスポンサーが逃げていくところまでは比較的早い段階から予想してたのだが、まさかグループ名も変えることになるとはね。
でも事の大きさを考えれば私には正直「しょうがない」としか言えない。
言い出しっぺのマスコミはどうせこれからも旧称で呼び続ける。大阪から出てきてただ愚直に20年間やってきた人たちが、今真っ先にこんなことになるのは、クソがつくほど理不尽だと思う。
それでもしょうがない。もうしょうがないのだ。あらゆる記録・記憶・ネーミングからジジイの名前を消さねばならないと、当時のトップが自らそう判断したことが私はすべてだと思ってる。彼らがジジイのことを内心どう思っていようと、外にいる私はその判断を飲むことしかできない(この件について議論するのはしんどいのでコメントはお控えください)。
件の会見で「グループ名を変える」との声明が出たあと、速攻でFC動画を上げてきた5人の対応力には目を見張った。地獄を何度もくぐり抜けた経験が確実に生きている!
自分たちでも未だにわからないことが多いとか、検討と決定にはそれなりの時間がかかりそうだとか、現状を報告しながら「今ここにおるで!」「こっちに向かうで!」と迅速に伝える仕事ぶりと誠実さに感じ入った。その2日後、「グループ名を考えよう!」とのポップなタイトルのアンケートフォームが立ち上がったときは不覚にも笑ってしまったが。
2024
そして今、とうとう新グループ名のお披露目が2日後に迫っている。
話し合いは二転三転どころか五転六転したらしい。嵐にしたらオモロいかなとか、そこは「嵐2」やろとか、やっぱ名前変えないでいこうかとか、やっぱり変えざるを得ないかとか、安田さんが悲しくて泣いちゃったとか、見えないところでいろいろありつつも、最終的に横山さんが出した案に他の4人が乗っかったところまでは聞かされている。こういうときアイデア出すのってやっぱ横山さんなんだよなあ。解釈一致だわ。
新しい名前を受け止める覚悟はもうとっくに決まっているのだが、「関ジャニ∞」という屋号が(少なくとも世間から)消えていくことには未だ実感が伴わない。オタクもメンバーも慣れるまでしばらくはポロッと旧称言っちゃうだろうし、全然それでいい気がする。なんせ20年以上も名乗ってきた名前だ、いきなり捨てるなんて無理だろう。それくらいは許せ。
ああ、すっごい緊張してきた。誰かちょっと手ぇ握っとかない?
遠征はおろかアルバムひとつ買うのも苦しかった中高生時代。
いつでも捨てられたはずの雑誌やグッズをなぜか手元に残してた大学時代。
働くのがつらくて、残りの人生なんて消化試合だと思ってた新卒時代。
たらふく働きたらふく稼いでライブに行く気持ちよさを知った社会人生活。
私に与えた影響は色濃いときもあれば薄~いときもある。それでもすでに人生の約半分を関ジャニ∞と共にしてきた。ここまでくると、グループ名ってもはや私が彼らを応援する上での「本質」ではないのかもしれない。
批判を恐れずそのままでいく案も上がったというくらい、彼らにとっては大事な大事な名前だ。もちろんそれをまったく気にしないわけじゃない。しかし昨年の秋から何度考えても、私がこれからも一緒に年をとりたいのは、看板じゃなくて彼らそのものでしかなかった。これから彼らがどんな屋号になろうとも、看板を高く掲げる5人のその腕を支えたいと思う。