見出し画像

無痛主義的欲求とイントロの喪失

お疲れ様です、もんぬです。

内面磨きと外見磨きの自分軸を言語化し100日間伴走する『私戦略会議』を提供したり、コーチングをしたり、時短で会社員をしていたりする、酒と猫と書くことが好きなアラサーです。

2025年の自分に課した『毎日noteチャレンジ』Day51の今日は、感情のアウトソースと、無駄(と思われがちなもの)が失われつつあることについて書きます。


おもしろいポストを見つけた。

「今回の奇奇怪怪、あまりにも興味深い。現実では経験したくない出来事や感情を、恋リアやオーディション番組、推し活、ネットの誹謗中傷、ホラーなどを通じて疑似体験する——直接の痛みやリスクを負わずに、スリルや共感、恐怖を楽しむ「無痛主義的欲求」についての議論だ。」

このポストはこう続く。

「リアリティショーを観る、コンテンツ考察を続けるなど、他人の人生を通じて経験をアウトソーシングする人が増えている。行動より消費、経験より理解。情報の海に浸ること自体が目的化し、現実の体験なしに思考や感情を巡らせるだけで満足できる。そんな擬似体験で生きられる時代になりつつある。」

そしてこのポストの引用もまた面白かった。

「これ、今の若い世代に蔓延する「絶対に失敗したくない」消費行動に通ずるものがある。旅や店選びでは必ず死ぬほどレビューを予習し、映画でさえあらすじが気にいるかで観るかを決める、予定調和主義。背景にはSNSによる衆人環視と、膨大なコンテンツ量による意思決定の失敗できなさがある気がする」

私は近頃「タイパ」という言葉を聞くたびになんだか違和感を感じていたのだが、まさに違和感の中身がこれらなんじゃないかという気がして、noteを書こうと思った。

違和感を感じたきっかけはいくつかある。

例えば、最近イントロのある曲が聞かれないのだという。前奏を少しでも「長い」と感じるとその曲はスキップされてしまう。なので前奏なしで歌から始まる曲が増えているそう。

例えば、映画を見ながらSNSを触る。映画だけで2時間使うことは落ち着かないんだと。しかも映画を1.5倍速で見るとも。

え、情緒は???あなたたちが省いたそれは、省くべき"無駄"ではないと思うけどな???
というのが違和感の皮を一枚剥いた本音な気がする。

そしてそのようなタイパのあくなき追求も「膨大なコンテンツ量による意思決定の失敗できなさ」に含まれるのだろうと思う。
失敗してる暇なんかない。
無駄な時間なんか過ごしてる場合じゃない。
寄り道してる余白も余裕もない。
だって、"正解"の数が多すぎるから。
なんなら"正解"だけ摂取してもとりきれないくらいの、大量の"正解"に溢れている。

とりあえず"正解"さえ押さえておけばよし!
今日も効率的に、傷つかずに、いいとこどりで一日を終えることができた!よかったね!
という話なんだろうか。

その"正解"を「必修科目」と例えるとしたら、本来であれば必修科目をさらった上でそれを踏まえてあとは自分の好みを探しにフラフラ出かけていくのが良さそうだけど、そういう自由科目のようなものに辿り着く前に時間もお金も心の余裕もリソース不足になっている状態というか。
必修科目が多すぎたらそうなるよね。普通に。

しかもその必修科目は、ちゃんとエモい。ちゃんと有益。
必修科目的な"正解"だけさらっておけば、"人としての生を全うした"ということに一旦はなりそうなくらい。

ただこの「エモい」が、大半は「アウトソースされた感情の揺れ動き」である時代がまさに「擬似体験で生きられる時代」と形容されたわけで、聞いた感じなんだかおそろしい時代に突入している感がある。

でも、傷つくのって怖いよね。
「傷つく」までいかずとも、損した〜とか、ミスったな〜とか、そういう感覚ってなんだかものすごく避けたい。
ひとたび心や身体を損なってしまうと、復旧には手間も暇も相当かかるもの。
大きくも小さくも傷ついた経験のある私は「損なわないこと」に日々必死だし、万一損なう瞬間があってもその傷をいかに浅くするか、様々なエアバッグを完備することに力を注いでいる。

傷つくことを恐れない人ってすごい。(たまにそういう人だと思われることがあるけど、全然違います。私も普通にできることなら傷つきたくないです笑)

傷ついてる人・損してる人・ミスってる人の様子を見られるコンテンツがあってリアルに擬似体験できても、当事者でないのならそれはあくまでエンタメでしかないから、ラクで良いよね。
感情を動かせた感じがすればなんか「ちゃんと人間してる」感じがするしね。

ただ、感情移入しやすいという自覚がある人でも、同じ気持ちになっている気になっている人でも、当事者のそれとは何もかもが違う。
共感力が引くほど高くても、当事者と同じでは絶対にない。
結局他人のことであり、本人は何も失っていないのだから。

そういえば前に少しの期間関係性があった男性で「人の気持ちがわからないので、映画をたくさん見て心のトレーニングをしてます」と話していた人がいたけど、私から見たら彼は明らかに回避型の愛着スタイルで、結局自分が傷つく可能性のあることは絶対しないんだろうなという気がしていた。
どれだけ疑似体験で心を耕したつもりでも、当事者になるのは全く別の話だということが本人もわかっているのではないか。
当事者となって傷つくのは嫌だけど、人間らしさを完全に失った「つまらない人間」にもなりたくないから、疑似体験だけはしておく。みたいな。
何もしないよりマシなのかもしれないが、本質的ではないよな。
でもやっぱり、本質性を追求するあまり「自ら傷つきにいきなさいよ」というのも違う気がする。

なんか恐ろしい時代だな〜と思いつつ、でも「自分が傷つくのは怖い」という気持ちは間違いがない。だから自分が生身で経験を、よりも疑似体験をとりに行くのはやめられないんだろう。
ならばせめて、「いきなり本題」とはいかずに前後の文脈や余白による情緒を楽しめる余裕のある大人でありたい。

行ったり来たりなまとまりのない文章ですみませんが、またこれについてはだらだら書きたいと思います。


2025年は毎日noteを書いています!
読んだよ!の「いいね」いただけると励みになります。
もし感想をいただける場合は、Xで記事のポストを引用していただけると見に行きやすいです。
今日もここまで読んでくださり、ありがとうございました。
また明日もよかったら!

いいなと思ったら応援しよう!