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言葉はキャッチボールだけが正じゃない
お疲れ様です、もんぬです。
2025年の自分に課した『毎日noteチャレンジ』Day28の今日は、ある友人と話していて「これ、言葉の "キャッチボール" っていうか投げ合ってるだけじゃない!?」と気づいた日の話を書きます。
「言葉のキャッチボール」という表現があるように、心地良いコミュニケーションとは「投げた球をきちんと受け止めてもらえて、受け止めた球をこちらの受け取りやすいゾーン目掛けて投げ返してもらうこと、それをお互い繰り返すこと」なんだと思っていた。
多分、世論もそうだと思う。
「マッチングアプリで合った相手と言葉のキャッチボールができないからその先はないな〜と思った」みたいな話はよくよく聞くし。
コミュニケーションは言葉の「キャッチボールになっていること」が重要だと信じて疑っていなかった。
当方、コミュニケーション能力には幾ばくか自信がある。
10年以上それを磨くことを常に意識してきたし、プロコーチという「コミュニケーションの資格」と言ってもいい資格まで獲ったくらいなので、磨かれていなきゃ困る。
人と話すの、すっごい好きだし。
もちろんコミュニケーションで失敗することもたくさんある。めちゃくちゃある。この科目は一生鍛錬が必要だと思う。
でも一応それなりに、この人と楽しく話したいなと思えば楽しく話せるし、こんな話をしっかりしたいなと思えばできるくらいのコミュ力はあるつもり。
ただ、そんな私以上に圧倒的なコミュ力を持つ、とある友人Aと話していた時に気づいたことがあった。
私たち、ボール受け取ってなくない!!!?!?
よくよく観察したら、相手が投げたボールを全然受け取ってない。私もAの話に対して、いつもちゃんとやるはずのリアクションの手間を省いているし、AもAで私の話に対して相槌的なものなんかなしに新たなボールを投げてきていた。そしてまた私はそれを拾わない。
気づいて観察し始めたらあまりに異様な光景で、もはや面白かった。
でも、ちゃんと楽しいのだ。
話し終わった後、あー今日も楽しかった!という読後感が残る。
不思議すぎてこれはどういうことなんだろうともっとよく観察したら、おそらく、一応相手のボールを見てはいて、自分の中ではそのボールから派生して(連想して)考えたことを次のボールとして一応相手の近く目掛けて投げている、みたいな話なんじゃないかと思った。
「あなたの話を受け取ったよ、こう感じたよこう思ったよ、それでこう繋げたよ」というリアクションや接続部分の説明を丸ごと端折ってるだけで。
その上で、リアクションや繋げ方の説明を端折っても「ちょっと!なんで私のボール落としてんの?」「リアクションしてよ」「話変わってんだけど?」ってお互いならない。
一度、試しにがっつりリアクションをするようにしてみたけど、Aの様子は変わらなかった。私がリアクションをするかしないかはどうでもいいんだろう。
これはもしかして、「相手は明確なリアクションがなくともちゃんと自分の話を聞いている」という暗黙の信頼の上に、「自分が投げたボールから連想されたであろう "一見別の話" が飛んでくる」という信頼由来の予想が乗っかった、ほどよく適当ながらスピード感のある発散を楽しんでいるみたいな結構ハイレベルな話!?
と思うことにした。
ハイレベルという表現は少し強引かもしれない。
というのも、Aとのコミュニケーションをきっかけに自分のコミュニケーションを改めて見直してみたら、私は仲良しになればなるほど「コミュ力」の行使を放棄していることがわかった。
これはシンプルにただの甘えで、すごく失礼な話なのかもしれない。
ありがたいのは、そんなんでも皆、変わらず会ってくれること。
これを書きながら昔のことを思い出したが、3人組で仲良くしていた友達がいて、私がうっかり気を抜いて適当な相槌を打ってしまい「やべっ」と思った時に「なんか今の、素っぽくて嬉しかった!」と2人から言われたことがあった。
私が普段、多少なりとも「コミュ力というスキルを使っている」ことが友達にはバレていたんだな、と恥ずかしくなったし、あの雑な私をむしろ喜んでくれるなんていう優しい世界線があるのか。とちょっと感動した。
確かに、気を張っているのがわかりやすい友達っているなぁ。
そんなに気を使わなくても大丈夫よ、と思う人。いるなぁ。
コミュ力を行使していることが相手に伝わってしまっている時点でそれほどコミュ力は高くないということなんだろう、みたいな意地悪な話もあるにはあるけど、それがその人なりの精一杯の処世術なのかもしれないと思うと「そんなに気を使わなくていいよ」と言うわけにもいかない。
気を使わせているのはこちらなのだし。
そうだ、今度「気を遣わせないという気遣い」について書こう。これは私の中で20代最後の大発見だったから、丁寧に書こう。
脱線しまくったけど、Aとの「ピッチャー同士の会話」から、はたから見て全然キャッチボールになっていないようなやり取りでもその根底にお互いのコミュ力への信頼がある場合もあるのかもしれない、と気づいた話でした。
もっとも、楽しいと思ってるのは私だけで、Aには「この野郎」と思われているかもしれないけど。笑
終わり!
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今日もここまで読んでくださり、ありがとうございました。
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