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「好き」と「付き合う」は別の話
お疲れ様です、もんぬです。
2025年の自分に課した『毎日noteチャレンジ』、Day3の今日は恋愛の話を書いてみます。
ずっと前から考えていた、「好き」と「付き合う」って別の話じゃない???という疑問について。おそらく少数派の意見になりそうな予感がして、ちょっと緊張してます。
「**さんのことが好き」と人に話すと「付き合っちゃえよ!」と背中を押される。「好きです」と伝えると「僕もです(→付き合うことになる)」もしくは「ごめん、気持ちに答えられなくて(=付き合えない)」と言われる。
そのたびに、ああ一般的には「好き」と「付き合う」は地続きなんだなと痛感する。
しかし自他ともに認める恋多き女である私だが、昔(それこそ学生の頃)から、「好きだなぁ」と「付き合いたいなぁ」は必ずしもイコールでない気がしていた。もちろん「付き合いたい」に「好き」は含まれているが、「好き」だけど「付き合いたいとはまた別だな」というパターンもある、という感じ。(で、「付き合いたいとはまた別の好き」よりも「付き合いたい好き」の方が好意としてデカいのか・質が良いのかというと、これまたそうでもなかったり。)
だから「付き合ってください」への答えは「付き合える」「付き合えない」だという理屈には何の異論もないが、「好きです」への答えって無言でいいんじゃないか?と思っていた。強いて言えば「ありがとう」「嬉しい」「キモい」「迷惑」などの感想か、「自分も好き」とか。
変なことを言ってるだろうか。
そもそも「好き」って、感想じゃん。私があなたに対して抱く感情・お気持ちであって、感想であり、それ以上でも以下でもないので「好き」という発言自体には何の要求要素もないはずなんだよな。
もっと言うと「好きだから付き合ってください」では本来足りなくて、「好きという気持ちから派生して、1:1の特別な関係になってもっとあなたのことを知りたいし私のことを知ってほしいしあなたのことを独占したいしあなたに独占されたいと思うようになったので、付き合ってください」だと思う。
(小姑みたいな細けーうるせーことを言っている自覚はあります、すみません笑)
【追記】
大前提と思いすぎてて書かなかったけど、私は好きで付き合えるなら付き合いたくても相手の気持ちがそうではないことが明確なので「好き」と思っても「付き合いたい」に思考が直結せず、というパターンはたっっっくさんあります!笑
私の中には明確に「異性として好きだけど付き合いたいわけではない」の「好き」が存在し、それも以下3つのパターンに分けられる気がしている。
①「好き」の解像度を上げたら独占欲がないと気づいた場合
② 男女関係より優先したい社会的な関係がある場合
③ 付き合わない方が良い関係でいられそうな気がする場合
①「好き」の解像度を上げたら独占欲がないと気づいた場合
相手への「好き」をあえて言い換えてみると、「尊い」とか「まぶしい」とか「大切」とか「すごい」になる場合がこれ。すごい人だからもっとみんなに知ってほしい!と言った具合に、相手のことを "共有されるべき国民的資産" のように感じている場合。
私なんかが独占してる場合じゃねーんだ、とブレーキをかけているとも言えそうだけど、ブレーキを自覚したところで踏まないことにはならない。相手が望んだとしても。
「推し」に近い感覚なのかもしれない。
こういう相手を独占するのは夢の中だけで充分。
② 男女関係より優先したい社会的な関係がある場合
仕事や何かしらのコミュニティ上の相手の場合、「好きだなぁ」「いい男だなぁ」と思っても「付き合いたい」という気持ちが湧かない。
男女関係って脆いから。
私がこれまでうまくやってこられなかっただけかもしれないけど、一度男女の関係になってしまうと、元の適度な距離感は確実に崩れてしまうし、社会人同士のリスペクトを忘れてしまう感じがする。「社会人と社会人」ではなく「人間と人間」になってしまう感じがする。
「人間と人間」の何がダメなのか、と思う方もいらっしゃることでしょう。ね、本来は「人間と人間」で無事深まれたらいいんだけどね。「社会人としてのあの人が好き」ってのがあるんだよ。「あの人の前では人間としての私じゃなく社会人としての私でいたい」ってのがあるんだよ。
私の "社会人という鎧" が分厚いだけなのかもしれませんけども。
③付き合わない方が良い関係でいられそうな気がする場合
「好き」→付き合う→別れる、を幾度となく繰り返し、「付き合う」に適さない「好き」があることを身をもって知った。
「好き」と「付き合う」の一番の違いは、登場人物にある。
「好き」の時は、私は私から見えている視界の中で、相手だけを見ていたら良い。しかも、見えている相手だけを見ていたら良い。
しかし付き合ってしまうと、「私」が登場する。「相手と付き合う私」が登場する。しかも、その1:1という関係値の特殊さ、距離の近さから、これまで見ていなかった相手を見ることにもなる。その、新鮮な相手と自分が近距離の関係性になった時にどうなるか、想像したら「付き合うには向かない」と判断できることがあるのだ。
今の自分がこの人と付き合って良い関係を作っていけるのか。この人はこういう幸せを望んでいるが自分はそれを叶えられるか、邪魔をしてしまわないか。この人の垣間見える闇を今の自分は受け止められるのか、この人に自分の闇を受け止めさせていいのか。お互い今見えていない闇が露呈した時にどうなるか、などなど想像した時に「私じゃないかも」と見えることがある。
「相手にはこう在ってほしい、でもそうなると自分は苦しい気がする」みたいな。
①②③に共通するのは、「人と人の距離感・関係性は、それぞれにベストな形がある」という話なんだと思う。
昔は「好き同士やったら付き合ったらええやんけ!何がどうなるかわからへんし意外とうまくいくかもしれへんやーん!案ずるより何とか!やらない後悔よりやった後悔ィー!」と勢い任せに付き合って、結果案の定、ということが何度もあった。
そんな数々の後悔(と呼ぶべきか学びと呼ぶべきか)から「この人と私のベストはどんな距離感・関係性だろう」「私はこの人と最終的にどうなりたいんだろう」と一つ一つの関係性を大事に取り扱うようになった気がする。
これは男女関係に限った話ではなく、全人間関係に共通すると思う。
ちなみに、よく「自分を愛せなきゃ人も愛せない」と言うが、私は「自分を愛せなきゃ平穏なお付き合いはできない」とは確信を持って言える。(自分を愛していなくても人を愛することはできるんじゃないか?と思っている)
相手からの好意に値する自分だと思えていないと、相手からの好意を素直に受け取れないので、どんどん拗れていくのよね。しまいには「試し行動」みたいなものを始めちゃったりして。終わってるよね。
私は長らく自分のことが好きじゃない状態で恋愛をしてしまっていたので、良い人ほど振り回して困惑させて傷つけてしまったし、やなやつとは傷つけ合って、もう本当にみんなごめんねという感じ。
というわけで私は、「好き」と伝えるとイコール「付き合ってください」の意と捉えられてしまうことを懸念し、伝えなかった・伝えていない「好き」がある。(その点、女性にはいくらでも「好き!」「大好き!」を伝えられるので幸せ。)
おばあちゃんくらいの年齢になってもしまた会うことがあれば、「あの頃大好きだったんじゃよ〜」と伝えるのもいいかもしれない…と書いたところで、自分の好意を伝えることが加害になる可能性を思い出し、好意が好意的に受け取られる確証が持てなければやっぱり墓まで持っていくのかいいかも、と思い直した。
▼自分の好意の加害性についてはこちら
今日はここまで。
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