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人の興味って…

最近ボンヤリ考えていること。
人の興味って時には味方になり、時には敵になるなということ。
敵になるっていう表現はちょっと違うか…。攻撃になりうるんだなということ。

例えばこうやってnoteを利用するようになって自分の文章を読んでもらえたり、「スキ」をもらえたり。わずかでも興味を持ってもらえることは嬉しい。
生活の中でも気にかけてもらえてると感じる時、あなたはどうなの?とわたしを知ろうとしてくれてる時は嬉しいと思う。

それは自分が「話したいこと」「聞かれたいこと」「知ってほしい人」に限る。

自分が「話したくないこと」「触れられたくないこと」「思い出したくもないこと」について興味を持たれるのはとても怖い。
それを聞いてどうするの?あなたが何か助けてくれるの?解決してくれるの?
ただの「興味本位」でしょ?
といういや〜な卑屈〜な自分が出てくる。

こんなことを考えるきっかけとなったのは、先日、人からこんなことを言われたから。
「Aさんがあなたのこと気にしてたよ。〇〇のことについて気になるけど本人(わたし)には聞けないからって。」
…え?なぜ。Aさんとは特別親しいわけではないし、「〇〇のこと」というのはわたしが触れなくていいなら触れたくない、考えなくていいなら二度と振り返りたくもないことだ。もちろんAさんに関わることでも全くない。
それをなぜ気にするの?
図らずもまあまあの波瀾万丈な人生を送っており、人からしたら経験したくないようなことも経験してしまっている人間なため、興味を持たれているのだろうか。しかしその「興味」はわたしには恐怖だ。

たとえば何かとてもひどい事件や事故の被害を受けた人や、悲しい出来事が起きた人に対して、

どうしたの?何があったの?大丈夫?…その後結局どうなったの?

これってどこまでが「寄り添う」「気遣う」ことで、どうなると「悪意のない興味本位」になっちゃうんだろう。
受け取り方次第なのかな。それとも発する側の気持ち?聞いた後の行動による?

悲惨な災害のニュースを見ていても、被害状況を事細かに伝えていて実際に被害にあった人にインタビューして気持ちを聞き出している。
本当にこの人は今、そのことを「話したい」のだろうか?自分や周囲にありえない出来事が起きたとき、判断がつかなくなって聞かれるままに話してしまっているということはないのだろうか。本当はしまっておきたい気持ちなのでは?
今、被害に遭った人の気持ちを聞き出すことが誰かのために必要なのだろうか?
否定ではなく本当に分からない。だから悶々と考えてしまっていた。

でもそもそもそのニュースを選び取って見ている自分がいるわけだし。
自分はなぜそのニュースが気になるのか。見るのか。
心配だから?それともただ知りたいだけ?
「なんてひどい。とても他人事とは思えない。」と言いながらその根底には「自分じゃなくてよかった」という気持ちが隠れているのではないか。もっと言えば自分じゃなくてよかったと安心するためにそのニュースを見ているのではないか…。
さすがにそこまでは極端だが、では1ミリもそんな感情がないと言い切れるのか?本当に?
なんだ自分!Aさんのことをどうこう言えるような人間じゃないんじゃないか?

基本、普段は自己肯定感ムダに高いほうなんだけどなんだか考えちゃってた。

でも書いてたらなんかごちゃごちゃ思考しているように見せかけて言いたいことはシンプルにひとつなんだと気づいちゃったかも。

「わたしは〇〇のことについては、もう誰にも話したくないの!!お願いだからほっといて!」

というただの身勝手な感情を屁理屈でそれっぽく主張しようとしただけでした。
うーん、未熟だなぁ〜自分。カッコつけたいんだねえ。ヤダヤダ。
でも書くことって頭が整理されていいことだなぁ。と、結局なんの中身もない文章で失礼しました。以上です。


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