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「オンライン生活」から考える、カラダとココロの解像度

こんにちは、モンジュノチエ1号です。初投稿です。

初回ということで、何がふさわしいかよく分かりませんが、ひとまずコロナ環境下の「オンライン生活」を、我が身の生活からゆるく振り返りつつ、「カラダとココロの解像度」という視点から、「現代の魔法使い」落合陽一さんの唱える「デジタルネイチャー」の思想に軽く接続させて、なんとなく理論的な背景をほのめかして締めにしたいと思います。

ステイホームのお座興に、お楽しみいただければ幸いです。

【1】コロナ以前――「オフライン・ラヴァー」としての私

コロナに見舞われる前の私の生活は、基本的に「オフライン」が中心。「生好き」「ライブ好き」の、いうならば「オフライン・ラヴァー」でした。

趣味では、映画館には行かず、演劇鑑賞ばかり。食事は、ほぼ外食。飲みに行くとすれば、事前にググりも食べログも見ず、仲間と街を決めて、足で稼いで店を見つけるのを身上にしていました。

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仕事でデジタルメディアを扱い、かつ顧客に対して「デジタルいいですよ!」と薦めているのに、自身の日常生活は、めちゃくちゃ「オフライン」重視でした。

というのも、ココロのどこかで、「リアルなカラダで体感できるものに勝るものはない」と考えていたから。演劇にも、外食にも、足で稼ぐ飲み会にも共通しているのは、自分のカラダをその場に置くことで初めて感じられる「面白み」「楽しさ」。

そんな「オフラインであることの面白み、楽しさ」を信じていたので、とにかく外に出ていました。

【2】コロナ以降――私の「オンラインシフト」

そんな中、コロナの感染拡大に伴って、劇場は軒並み閉鎖、外食もしづらく、飲みに行くなんてもってのほか、という「オフライン・ラヴァー」にとっては、地獄のような日々が始まりました。

が、毎日を地獄と思って過ごすのも人生の無駄遣いなので、いっそすべてを「オンラインシフト」して、どこまで楽しめるか、試してみることにしました。

幸い、「オンラインシフト」の環境が実は整っているのが、このご時世。見に行く予定だった演劇はYouTubeで無料配信されたので、それを堪能し、外食はスマホからの宅配に変え、飲み会はZOOMやLINEに切り替えて「オンライン飲み会」にしました。

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その結果・・・これが、めちゃくちゃ面白く、楽しい。

特にオンライン飲み会は、最初はただ仲間と飲み会をするだけでしたが、オンライン麻雀をしながらオンライン飲み会をする企画や、離れた場所に住む姪っ子の誕生日会を実家と3拠点でオンラインで開催するなど、どんどんバージョンアップしていき、気づいたら私の「オンラインシフト」はすっかり完了していました。

【3】コロナ「以前」と「以降」で何が変わった?

では、コロナ「以前」と「以降」で、私の中で何が変わったのか?

端的にいうと(急に理論的な方向に加速しますが)、「カラダとココロの解像度」のバランスが変わったのではないか、と。

「カラダの解像度」というのは、リアルなカラダで感じる五感がどれくらい鮮明であるか、ということ。いいかえれば、人間のあらゆる感覚器官からの情報の入力そのものが、どれだけ鮮明かということ。

「ココロの解像度」というのは、感情的・心理的に今起きていることをどれだけ鮮明に感じられているか、ということ。いいかえれば、入力された情報に対して、どれだけ鮮明だと感じられるかということ。

似て非なるもの、ということが分かりますかね。カラダの解像度は客観的に測定できる情報量、ココロの解像度は主観的にしか判断できない情報に対する心的作用の反応量とでもいえます。

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「コロナ以前」の私であれば、「カラダの解像度が100%満たされているからこそ、ココロの解像度がそれに伴って満たされる」と考えました。「リアルなカラダで体感できるものに勝るものはない」という考え方が、まさにそれですね。

でも、「コロナ以降」になると、そんなこともいってられません。カラダの解像度は、オンラインの活用である程度解消されるものの、リアルな場に臨んだ時に感じられる解像度に比べれば圧倒的に低い。体感で50%いけばいい方でしょうか。

それが、不思議なことにココロの解像度は、カラダの解像度が満たされていないにもかかわらず、100%を軽く超えてくるのです。オンライン観劇も、オンライン飲み会も、オンライン麻雀も、オンライン姪っ子誕生日会も、すべてが不思議なほど満足感が高い。

「オフライン・ラヴァー」だった私が、かつて感じていたカラダの解像度に比べたら、はるかに低い解像度しか得られていないのに、オンラインでのココロの解像度は、驚くほどに高い。

さて、これは何を意味するのか?

【4】ここで、落合陽一さんを召喚

私は不定期に仲間と読書会をやっていて、2回前の課題図書が落合陽一さんの『デジタルネイチャー』でした。この本じたい、2018年発行ですが、今のコロナ環境下で読み直すと、まさに「予言の書」というべき、示唆深い内容にあらためて驚かされます。

第4章「コンピューテーショナル・ダイバーシティ」に、「カラダとココロの解像度」を考えるヒントがあるので、軽く接続してみます。

ちなみに、『デジタルネイチャー』では、私のいう「カラダの解像度」=「物質的(Material)」、「ココロの解像度」=「実質的(Virtual)」と読み替えられると思います。

ちょっと長いですが、引用します。

 「実質」が優れている点は、コストが低いことだ。複製も容易で、複数の人間で同じ体験を共有できる。それに対して「物質」の最大の長所は解像度の高さだ。そして、実質/物質に共通して内在しているのが情報で、これを第三の実相「本質」であると考えることもできる。
 今後は、物質・実質・本質の三者間におけるトレードオフの議論が、さまざまなところで表出するだろう。これまではメディアによるバーチャル(実質的)な体験、あるいは身体によるマテリアル(物質的)な体験の両極しかなかったが、今後は実質性・物質性の度合いを段階的に選択できるようになる。(落合陽一『デジタルネイチャー』p.168)

【5】私が「オンラインシフト」できた理由

かつて「オフライン・ラヴァー」だった私が、あっさり「オンラインシフト」できた理由。

それを落合陽一さん的に解釈すれば、「カラダの解像度」と「ココロの解像度」の間で、トレードオフ(=何かを得れば、何かを失うこと)が起きたからだといえます。

流れでまとめます。私は、カラダの解像度を100%にしておかなければ気が済まなかったにもかかわらず、そうできないコロナ環境が発生した。仕方なく「オンラインシフト」をした結果、ココロの解像度が思ったより高まった。これはどちらが優れているというわけでもなく、ただそのバランスが変わっただけ――。こんな感じでしょうか。

ここまで考えた時、ぜひオススメしたいのが、コロナ環境下での「オンラインシフト」を嫌がらず、一回「乗っかってみる」という態度です。

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私の体験からもいえることですが、カラダとココロの解像度のバランスは、意外に簡単に変わります。今だからこそ、そのバランスを「あえて変えてみる」のも面白く、楽しい生活の始まりかもしれません。

【6】まとめ(そして余談)

まとめます。
・私じしん、「オフライン・ラヴァー」だったが、「オンラインシフト」した結果、意外と面白く、楽しい毎日を送っている。
・それを理論的に分析すると「カラダとココロの解像度」のバランスが変わったからだと考えられる。
・これを落合陽一さん的にいうと、「物質/実質」のトレードオフが起きただけ。
・だから、あまり億劫がらず、「オンラインシフト」を一度はやってみたほうが面白いですよ。

最後に余談です。
落合陽一さんは『デジタルネイチャー』で先の議論のあとに、こう記しています。

身近な例でいえば、バーチャルな飲み会はすぐに実現可能だ。アルコールは物質的に飲んで、それ以外の雑談などはビデオ会議システムやVRゴーグルで実質的に体験する。これなら酩酊による事故も起きにくいし飲酒運転で捕まることもない。(同書、pp.168-9)

落合さんは「酩酊による事故も起きにくい」と書いていますが、私はオンライン飲み会のあと、既に2回意識を失ってベッドで昏倒しています。オフラインの飲み会では、基本的に意識を失ったことがないんですけどね。

これは何を意味するのか?

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ココロの解像度が高まりすぎるのも考えものだ、ということです。終電を気にしなくていい、駅からの帰りを気にしなくていい、というココロのゆるみが、「オンライン泥酔」につながっています。皆さんも、どうぞお気を付けください。

お読みいただき、ありがとうございました。

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