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48歳、年女。定年まであと12年を認識した時に思ったこと。

2024年元旦。生まれてから4回目の年女。次、年女になる12年後にはなんと還暦。いよいよ、定年が見えてきた。22歳で社会に出てから26年、長かったような短かったような。今までの社会人人生の半分以下の年数で、定年を迎える。それを認識した途端、焦燥感に駆られた。あと12年しかない。

少子高齢化の時代を迎え、60歳定年の概念も変わりつつある。定年を65歳に引き上げたり、あるいは定年自体をなくす企業もでてきた。従来通り60歳定年の会社に勤めていた方は、定年を迎えたあと、別の仕事で活躍する先輩方も多いし、そもそも自営業で定年関係なく元気に働けるうちは働いておられる先輩方もいる。
私が今勤めている会社に定年の概念があるのかどうかはわからないが、60歳を迎えたあと、自分がどのようにしたいのかを視野に入れつつ、この12年を過ごさねばならないことにあらためて気づいた。
それよりも何よりも、まずはこの12年をどう過ごしたいのか。

私は、もともと仕事においてやりたいことが明確ではなく、どちらかというと自分の状況や状態を気にするタイプである。リクルーターの仕事も、気が付いたらこの会社に行き着いて今年で11年を迎えるわけだが、この仕事に魅了されてここまで続いた、というよりも、チームメンバーに恵まれて、そのメンバーと仕事をするのが楽しかったからここまで続いた、というのが本当のところである。
今の会社に入社してからの11年の間、長女と次男を授かり、2回の産休・育休を取得。そして、5年前には主人が亡くなり、半年ほど使い物にならない状態だった私を、見捨てることなく、居場所を与え続けてくれた会社には感謝しかないし、私にできることは全てやりきりたいと思っている。
では、私にできることは何か。今までの経験を活かし売上に貢献しつつ、若手を育成し、私が定年退職したあともこの会社が健全にビジネスを存続できるような環境を整えていくこと。それができたら最高。

会社への貢献はもちろんだが、あと12年で終わるかもしれない会社員生活でやり残したことがないようにしたい。やりたかったことを全部やって、フィニッシュする。それを目指したい。

そんなことを漠然と考える中で頭をよぎったのが、海外駐在、である。

日本人として生まれ、日本で育ち、その後いくつかの国を渡り歩いたが、今は日本に住んで日本で仕事をして日本で子育てをして、それなりに幸せではある。でも、日本にいるとなんだか息苦しく感じることがあって、その度に、フラッと海外に出たくなるのは、若い頃から日本以外の国や文化に触れてきたからだと思う。
世界には色んな国があって、色んな価値観があって、色んな人がいる。だから、日本人として生まれたからといって、日本に留まっていなければいけないわけではない。自らの意思とご縁があれば、異国で暮らすこともできるのだから。

日本にいて息苦しいって感じるようになったのは、海外を知ってしまったあの頃からであるが、子供を授かって育て始めてから、より強く感じるようになった。いわゆる、同調圧力であったり、”こうあるべき”のような概念が根強く残っていて、ここにいると無意識にそれに従おうとする自分がいて、息苦しくなる。本当はもっとこうしたいのに、本当はもっとこうありたいのに。でも、女だから、母親だから、シングルマザーだから、死別したから。。。日本にはあまりにも人を定義する固定概念が複数存在して、その内容に自分が合っているかどうかは関係なく、自動的にその枠にはめられてしまう節が合って、これが結構息苦しい。
それだけではない。母国語の中にいると、意識的に排除しないと溢れるほどの情報が目から耳からどんどん入ってきて、その情報を処理するだけに使われた私の脳はどんどん疲弊して、私らしい判断や決断ができなくなってくる。
それをリセットして、自分の本当の気持ちに寄り添い、深い呼吸で新鮮な空気を肺いっぱいに吸い込めるような、そんな、自律神経が限りなくリラックスした状態を作るには、一度この場を離れた方が良い。今までの経験からそう感じていた。

幸運にも、私が勤める会社には東京だけではなくバンコクにも支社がある。2019年3月にバンコク出張した際には、近い将来家族でまたバンコクに引っ越してきて、バンコクで仕事をしたらいい、という打診があった。でも、その年の6月、主人が急に亡くなった。それ以来、一人で家を切り盛りし、子供3人を育てている私に、バンコクに来たらいい、とはもう誰も言わなくなった。いや、言えなくなった。
私自身も、主人が救急車で運ばれた病院で、医師に臨終を言い渡された時、あーもうこれで、私がこの先子供たちと一緒に海外で生活することは無くなった、と思った。その当時まだ1歳だった次男を抱え、主人を亡くし、私一人で、どうしてそんなことができようか。できるわけはなかった。

でも、人というのは、 思いのほか強いものでして。主人がいない生活にも慣れ、子供たち3人と私でなんとか生活し、それ以上に、また再びそれぞれの人生を楽しめるようにもなってきた。彼を失った寂しさは常にそこにあるが、だからと言って彼がいないことが理由で、何かを諦めるようなことは無くなっていった。彼の死から4年経った昨年、家族のことや、自閉症スペクタクルの長男のことで色々あり、私の中で何かがパン!っと弾けた。
もうやめた。私だって、もしかしたら主人みたいに明日ポックリ死ぬかもしれない。だからもう、嫌なものは断ち切って、自分の心が心地よいことだけして生きていこう、と。そしてその勢いで同僚に、”私、今なら子供たち連れてバンコクに戻れる気がする”、と話した。

そして迎えた今年、2024年。
年女となり、定年まであと12年を認識し、もう悩むことは何もなかった。会社も、バンコクでの受け入れ態勢を整えてくれた。時間をかけて子供たちにも説明し、なんとか同意をこぎつけた。

よし、バンコク行こう。

こうして、私と長男はまたバンコクに戻ることになった。長女と次男にとっては初めての海外生活。もう、思いっきり楽しもうと思う。


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