雨だれくそったれ
(9998字)
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やることがなくてひまで仕方ないから、3つ前の彼氏に聞いた〝雨の日にやたらいきいきする町〟を探して旅をすることにした。
私の目的はあくまで暇つぶしであって、道程が楽しければそれで良く、位置情報についてまったくのノーヒントのその町を本気で探しだせるとは思っていなかったので、ゴールの目安を作るために、まず銀行のATMによってお財布に15000円だけいれて、これが尽きる頃に帰ると決めた。繰り返すけど私の目的はあくまで暇つぶしであって、道程が楽しければそれで良いので、移動よりは食事の方に、多分私はお金を使うと思う。
とりあえず駅に向かい、改札で1260円の片道切符を買ってJRに乗り込んだ。
「乗り、込みました。さて残りのお金はいくらでしょう?」
とクイズを出すとする。
3つ前の彼である久保なんとか君(ちょっと今ぱっと名前が出てこない)は素直な人だったから、ええと、ええと、ちょっと待ってと言ってから、13740円!と言うに違いない。
引っかかったー、と思う。
私は少々回りくどく、嫌味たらしくこんなことを言う。
「あのね、久保君の財布って本当にスッカラカンになったことってある? 一円もない状態。お財布買ったばっかりのときくらいじゃないと、本当にまったくお金がないってことにはならないじゃない」
私は久保君の「マジかよ…」って顔を見る。
「私は今日、確かに15000円をおろしましたが、その前からいくらかはお財布に入っていたのです。だから答えは…、ええと、ちょい待って。一万と、六千、ろく、なな……。16788円! でーえーした」
マジかよ…って顔してる。そんなズルい問題ありかよ。そんなズルさに気付いたとしても、ノーヒントでみやちゃんのお財布に入ってたお金なんて分かるわけないよ、って顔。
そうなのよ。ノーヒントで分かるわけがないのよ。でも良いのよ。今日はひまだから。
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その町は雨に日に赴くのが最高だと言う。
一番最高なのは、24時間開いている小さい博物館があるのだけど、そこで朝を迎える時間になっても外はまだまだ青く濁って、ほんわりしとしとと霧のように立ち込める雨の匂いを感じたときだとか、そんなことを言っていた気がする。
青く濁って、ほんわりしとしと、霧のように立ち込める雨の匂い。
こういう彼の言い方が結局最後まで私はあまり好きになれなかったけれど、彼のことを話すのにこういう言い回しを避けるわけにいかないし、こういう言い回しが彼そのものだし、実際にこうして強く覚えているのだから、彼はこうなのだ。
霧のように立ち込める雨の匂いというのは、それにしてもしつこいと思う。
「霧のように」という言葉で、雨の匂いを修飾するのはおかしい。霧と雨ってそもそも性質が似てるから、比喩表現として雑過ぎる。雨の匂いはそもそも霧のようだと私は思う。
久保くんのそういうとこ。自分は繊細で感受性豊かですよみたいなポーズを遠慮なく取れてしまうところが私は苦手だった。
もっと気を遣ってよ、言葉の選び方に、と私は何度も思った。そういうこと、自分が草食系の甘い言葉遣いをする現代的な男子と自認するなら、ツイッターにポエミィな、内容のない、ただ素敵くさいだけの言葉を並べるに値するルックスだと自認するなら、もう一歩世界の粒子を感じて、機微を辿って、迷ってくれよ、と感じた。
もっとそれより気に入らなかったのは、彼が私を雑な人間だと思っていて、情緒もクソもない人間だと思っていたということ。風や、星や、秋の匂いに、何も感じない人間だと思っていたということ。
ある日DVDを借りて見ようってなったとき、みやちゃんと見るなら、んーこういうのが良いかなって選んできたのは『ハングオーバーⅡ』と『トイ・ストーリー2』だった。
なんでどっちも2なの?
別に良いけど、なんか明らかに人のことバカにしてるよねって顔をしたのだけど、そんなことには気付いてもらえず、というか私の顔を見ておらず、今度一人で見る用に借りてきたいから、ここのお金は良いからっていう久保君が自分用に持ってたのは『ショーシャンクの空に』で、えーまあ良いんだけど、人のことバカにしといてそんなメジャーなところ行くのかよって気持ちは否めなかった。
アンドリュー・デュフレーンがついに脱獄を果たし、下水と、刑務所の習慣で汚れた身体を洗い清めるように両手を広げて、雨と、おそらく赦しを受ける姿が、パッケージにされている。
久保君は一人で見る用ではなくて、自分が一人で映画を見るときはこういうヒューマンドラマを好むことを私に知らせる用のDVDとして『ショーシャンクの空に』を借りたのだった。さすがにこれはみやちゃんでも知ってるでしょ、見たことはなくても聞いたことくらいはって思いながら、それを選んだのだった。
第一みやちゃんってなに。私の名前「みやこ」なんだけど。みやちゃんとみやこでははんなり具合が全然違うんだけど。彼にみやちゃんって呼ばれると、私は刺々しくなる。
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電車の中はなんとかという駅からどっと込み合い、私の隣には動きが静かなおばさんが座る。目顔で、お隣良いかしら?と言っているように思えたので、私も目顔で、どうぞどうぞと応え、さらにお尻を少し、窓側に寄せた。お尻の言葉である。尻語である。
顔をぐっと近づけて、さっきより親しくなった車窓には街が流れる。誰かの家の、二階部分に拵えられたテラスが見える。ああ、夏はあそこで近所の目を気にせずバーベキューとかするのかなって考える。
焼き肉の匂いはするけれど発生源は分からないみたいな、私の田舎にある夏の光景ならぬ香景が、いつも好きだった。私の家が焼き肉の匂いの発生源になったことはない。
夏、夕暮れどき、よく夏らしい焼き肉の匂いを町に感じていた。いいなあそういう家庭。そういうイベントがある家庭の子に生まれたら、多分私はこんな変な休みの使い方をするようにはならなかったんだろうなと思った。
え、どうして? どういうこと? と久保君なら言うだろう。私に奥行があるなんて思ってもいないのだ。
うるさい、ちょっとは自分で考えて、と私は目顔で訴えるけれど、そういうのがまったく通じないのが久保君で、そういうコミュニケーションが取れるのが、今私の隣に座っているおばさんである。
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24時間開いてるっていうのは、24時間オープンしてますよって意味じゃなくて、基本的に施錠しないからその気になればいつでも入れるってことね、と彼は言った。
これは私たちが『ハングオーバーⅡ』などを借りた駅前のTSUTAYAの話ではなく、彼が言う町の、博物館の話だ。
盗まれたりしないの? と私は聞いたけど、盗むもんなんてないからねと彼は笑う。その博物館には何もなくて、言葉の綾とかじゃなくて本当にがらんどうの何もない建物で、まじでそこから運び出すもんなんて何もない、らしい。
あでも。とかれは続けた。
その声は覚えているけど、3つも前の彼氏の顔はなかなか思いだせない。ついでに下の名前もうろ覚えである。メガネをかけていて、下くちびるが少し厚かった。髪の毛が少し茶色がかっていて、明け方や夕方、太陽の光を浴びるとさらに薄い色に見えた。
あと、良い匂いがして、服にはあまりお金をかけなかったけれど、傘とか、それこそメガネとか、そういうものを選ぶセンスはとても良くて、そういう、身に付ける小物の一つとして私も選ばれたのかと思えば少しよい気分になってしまったほどだった。
私が彼のあの絶妙な淡いブルーの傘とか、枕元に丁寧に置いてあって、朝一番に彼の手へ触れることになるであろう細いフレームのシンプルなメガネと同じように彼に選ばれたのであれば、彼が持つという行為によって私が洗練されていくような、そんな気分になったものだった。
そうだそうだ、あでも。と彼は続けたのだ。あのとき。博物館の中には何もないけど、自動販売機はきちんと階段の下の暗がりに設置されていて、電気はついているし、中身もしっかり補充されているらしい。
博物館はもう博物館としては使われていないけれど、そう例えば雨の日に、その博物館を通っていけば、その向こうにあるスーパーとか、図書館とか、バス停にまっすぐ行けて、そこを通る人は多かったし、自動販売機はスーパーの前のよりもずっと利用されていたような気がすると彼は言った。
そんなのどうしてわかるのと私が笑って言うと、彼は嬉しそうにしていた。
そこ、言ってしまえば半分廃墟みたいなところだったんだけど、中はすごくきれいだったし、町のみんなに大事にされてたし、セキュリティも何もないのに落書きとか、自販機にいたずらとか、何もなかったんだよ、と彼は誇らしげに言った。
ホームレスとか、そういう人の寝泊まりの場所になってなかったの? と私が問えば、彼は明らかに不機嫌になった。
は、ホームレスなんて都会にしかいないよ! だってあんな田舎でホームレスなんてできないじゃんか。ちょっと考えれば分かることじゃない?
そんな怒らなくても、ただちょっと不思議に思っただけで。それに、あんな田舎って言われても。私はそこのこと、知らないわけだし。
雨の日はそこで過ごした。雨の日にしか会えない人たちがいるんだ。雨の日にだけ、まるでカエルとかミミズみたいに、どこからかいつの間にか出てきてて、雨が立てる音に負けないように話して、雨が起こす石鹸の泡みたいな風に煽られながら、町中を歩く。雨の日のあの町は、普段よりずっと活き活きしていて、楽しいんだ。あの町があるから、僕は世界中が雨になっても楽しく暮らすことができると思うんだ。
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雨が降っている間はあの町にいたかったけど、あの日、夜はちょっと家で用事があって僕は帰らなきゃならなくて、バス停でバスを待っていた。
そこに小さい女の子がとことこやってきた。
屋根付きのバス停なのに傘を畳まず、くるくると傘を回すんだ。分かる? 大道芸のときみたいに、メリーゴーラウンドみたいに、傘をくるくるって。傘を持ってる腕を回すんじゃないんだよ? 柄のとこをねじみたいにくるくる回して、傘をくるくるするんだ。
分かるよ、そんな詳しく言わなくても、と言って私は笑う。変なところで神経質な彼だった。
正直ね、その子を思い切りぶちたくなった。
えーなんでなんで? 久保くんでもそんなことあるの? と私は驚いて見せた。彼にそういう衝動があることは知っていたけど、私はそんなことに彼が気付いてほしくないことも知っていたから、まるで本当にそれが意外なことのように彼の顔を覗き込んだ。
ツイートしようかな。私の彼にDV衝動の気あり。@sei-taro このアカウントが私の彼氏です。臭いポエムツイートと物腰が柔らかそうな自画像アイコンに騙されそうな人、気を付けてください。こいつちょっと気に食わないことがあったからって幼女を思い切りぶちたくなる傾向あります。そうツイートしようかと思ったことがある。
あ、てか清太郎だ、清太郎って名前だった。
あの子が傘を回すたびに、骨組の先端のあの丸っこい頭から雨粒が飛んで、僕のパンツに水滴が飛ぶんだよ。一歩近づくともっと勢いよくパンツに雨粒が飛んだ。あの子がどれだけ勢いよく傘を回しても、傘の上の雨粒はなくならないよ、だってあの子、屋根付きのバス停の、屋根の外でバスを待ってたんだもの。わざわざ雨だれを受けるように立ってるんだ。傘にあたる雨の音が楽しかったんだと思う。機嫌の良さが小さい背中からにじみ出ていたよ。屋根から滴る重い雨だれを受けて、それを全部僕のパンツに向けて飛ばすんだから、僕の太ももあたりはびしゃびしゃだよ。
私は彼のパンツの言い方が気になって仕方なかった。ズボンという意味なんだろうけど、彼の言い方は下着のパンツのことを言っているように聞こえた。ズボンのパンツと見せかけて下着のパンツの話をこっそりしているのかもしれない。
それでいいわけない、と彼は続ける。僕は彼女にそれを止めさせたかったし、何より僕の存在に気づいて欲しかった。もしくは彼女がそういう動作を繰り返すことで僕のパンツが濡れることとの関係性みたいなものを知ってほしかった。僕はちょっと嗜虐的な気分になった。
彼女の白くて丸い頬か、それか耳をぶぎゅっとつねってやりたかったし、長靴を脱がせて濡れた道路の上を走らせたくなった。長靴を脱がせて、僕が追いかければそれは叶うと思った。
なんか変態っぽくない? 私はいろんな意味を込めてそういった。あと言い回し、なんか既視感あるんだけど。これは言わなかった。
うん、完全に変態だった。なんか変な気持ちになったんだ。それで、彼女の手を引いて連れてった。あの博物館の中に。
連れてったの!?
今度は本気で驚いた。
あ、いや今はちょっと省いて言ったからおかしい感じになっちゃったけど、ちゃんと話しかけて、穏便にというか普通にね。まだバス来るまでに時間あるから、ジュースでも買って飲まない? って。あの建物の中に自動販売機があるからって。
誘拐じゃん。
誘拐じゃないよ。
でもジュースあげるからついておいでとか、誘拐の常套句じゃん。
まあそうだけど…。あ、多分それ今の僕でイメージしてるからだよ。僕当時14歳の中学生だったし、あの子も10歳くらいだったの。ね? 4歳差なんて大したことないでしょ? 普通に友達になって、博物館に一緒に行ったの。
4歳差なんて大したことないって、それ今言う必要あった?
博物館に一緒に行ったの、の言い方も、まるでデートに行くみたいな言い方だった。
彼は雨の日に会った小さい女の子に恋をしているのだなと私は思った。確信に近い直観で、私は久保くんが幼い子を性的に好むことに気付いた。やっぱりそれを私に知ってほしいとは思っていない久保くんなので私は黙っていたけれど、同時に気付いたのは、久保くんが私を洗練された小物としてではなく、比較的幼い顔立ちと、幼い体つきの成人女性として選んだのだということだった。
私は自分が気付いた久保くんの性癖を一旦脇にどけて、平常モードで話を続けた。
頭の中では、今すぐ家に帰って鏡をのぞきこみたかった。私の顔がどれだけ子どもらしく、久保くんを刺激するのかを確かめたかった。
でも目的はほっぺつねって長靴脱がせるためだったんでしょ? そういう目的がある以上、やってることはやっぱり誘拐だと思うの。
私は心の中でもうずっとさっきから鏡を覗いている。
鏡にうつった私はやたらにやにやしながら言った。
彼の焦ってる顔がいつ神経質な怒りに変わるかとハラハラしながら、こっちはいつでも、このロリコン!嗜虐趣味の変態野郎! って叫ぶ準備はできてるんだぞと思いながら。
そうかもしれない、と久保くんは言った。
怒り出すどころか、なぜか少し満足そうだった。
そうか、あれは誘拐だったんだ、僕たちはあそこでとても悪いことをしていたんだね。
ゾッとした。どうしてそんなに満足そうなのか。どうしてこうも清々しく変態であることに誇りを持っているのか。僕たちはって、なんでその子も共犯みたいになってるのか。
頭の中にロリコンとか、ドS野郎とか、変態とか、そういう平凡な罵り言葉しか出てこないことが悔しかった。
ドS野郎なんか、口に出したらさっそくTwitterのプロフィールに書きそうだなって思った。「好きな子にはわりとドSみたいです」とか書きそう。それ見た人はちょっと意地悪なとこあるんだ、くらいに受け取って、それも良いとか思うんだきっと。違うよ、意地悪とか可愛いもんじゃなくて、普通に暴力を振るうおそれがあるって意味のドSだよ。
どうにかして、彼のアイデンティティを肥やすものではなく、壊すような罵り言葉をぶちまけたいと私は思った。落ち込んでTwitterなんか止めちゃうような。
このとき、自分にも相当な嗜虐趣味があることに気付き、私は彼と別れようと決意したのだった。私が彼と違うのは、好きな人に対する嗜虐趣味ではなく、普通に気持ち悪いと思った人を傷つけたいという欲望なので、割りと正常に思える、ということだった。
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さっき、その町では雨に日にしか会えない人がいるって言ったけど、あれは嘘だよと彼は言った。
廃墟みたいな博物館に女の子を連れ込んで、それからどうしたのかを私は知りたかったけど、いや知りたくなかったけど、一応怖いもの見たさみたいな感情はあったわけで、当然この変態のことだから聞かないでもぺらぺらと話すと思っていたのに、こういう風に話題を変えられると、いやちょいちょい、さっきの、さっきの話は? と思わずにいられない。
実際、雨の日以外には僕はあまりあの町にいかないからね。天気予報を見て、雨が降りそうなときに前のりするわけ。
ときには学校を休んでまでそこに行った。翌日予定通り雨になることもあれば、薄曇りのまま一日が終わることもあるんだ。稀にガラッと天気が変わって晴れの日もある。曇りの日もよく似合う町なのだけど、晴れの日になると僕はまったくあの町を歩く気になれなくて、すぐに帰っちゃうんだ。だから、雨の日にしか会えない人というのは僕のことになるね。実際には晴れの日も雨の日も、あの町に住む人たちはいつも通り働いたり学校に通ったりしてるはずだよ。おかしいよね、町の人からしたら、僕の方が「雨の日にだけひょっこり現れる変な兄ちゃん」なんだよ。
結局、彼は自分の話がしたいのだ。僕って言う人間はこうなんだよね、って言いたいだけなのだ。
ナルシストの変態野郎か。Twitterに書ける属性が増えたね!と私は思った。
ところで博物館に連れ込んだ女の子とはその後どうなったのか。とうとう気になって聞くと、んーそこそんな気になる?別になんもないよ?って無駄に思わせぶりなことを彼は言う。普通にジュース飲んで、お喋りしただけ。ああ、結局次のバスには乗り遅れたんだっけ。
私は背筋にうすら寒いものを感じて、愛想笑いというにも少々お粗末な笑顔を浮かべた。彼に向けてではなく地面に向けて、は、はは、とまるで不意にみぞおちをなぐられて、ちょっと意味わかんないくらい苦しいんですけど、みたいなときのパニくった笑い方。
思いだしたら、少しだけ吐き気みたいな感覚が私の眉間のあたりに漂った。
隣に座ったおばさんが、気遣わし気に私の方を見ているのが空気で分かる。なにかのタイミングで話しかけて、様子を伺った方が良いんじゃないかしらという、ちょっと覚悟したみたいな空気を感じる。
私はおばさんに心配をかけないように、例えば窓にゴチンと頭をぶつけたり、鼻をすすったり、首を回したりする仕草は絶対にしないと決め、お喋りな空気を持つおばさんを遮断するためにイヤホンを取り出し、音楽を聴く。音楽のテンポと電車のガタンゴトンのテンポが食い違う。電車が遅くなった気がする。耳に打ち込まれる音楽と、電車の遅い振動に揺られておきた感覚の乱れが、勘が鋭く言葉を必要としないおばさんの存在を蔑ろにする。
「♪あめにまで、ながされて、かげにまぎれてたんだよ」
ゲスい声が聞こえる。
「♪あなたなら、あなたなら、きこえるってしんじて」
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血糖値が下がっていたのか、コンクリートはいつもより青く見えて、顔を上げられなかった。どうしてそこまで動じてしまったのかは分からないけれど、とにかく清太郎の声と、その町の雨と、博物館のイメージが頭の中で混ざって、非常に青い冷たい印象が私の頭の中にあった。
でもね、本当に雨の日にしかやってないと僕が思ってた店があるんだ。
小さい、コンビニみたいな個人商店なんだけど、雨の日だけそのお店、煌々と光ってるの。だからって雨の日にしか営業してないわけじゃなくて、晴れの日はあそこのおばあちゃん、店内の電気を全然点けないから、最初見たときやってないって思ったわけ。
晴れの日にその町に行くことは少ないから確かじゃないんだけど、でも雨の日にポツンと黄色く光るあのお店、すごくきれいなんだ。
店内はけっこうごちゃごちゃで、壁にそって商品は陳列されてるんだけど、なんか駄菓子屋みたいな雰囲気なんだ。それで、店の真ん中にも6段くらいの棚が置いてあって、そこにもモノがいっぱい。棚なのにモノはごちゃごちゃで、ワゴンセールみたいな雰囲気。
ロの字型にしか人が通れるところがないから、すれ違うのが大変なんだよ。そして割と人はいるし。どうにかしてすれ違ったら後ろの棚のモノが落っこちたりして、とにかくすごくごちゃごちゃしてるのになんかそれが良いんだ。特に僕と同世代かちょっと大人くらいの人…だから高校生か、今考えたら大学生もいたかもしれない。学生に人気の店だったんだね。それ、分かる気がする。
8/8
久保清太郎はそのきれいな廃墟の中で朝を迎えたことがある。
目が覚めたとき、「霧のように立ち込める雨の匂い」を感じてうれしくなった。
薄暗い雨の日、節電するおばあちゃんがやっているごちゃごちゃの商店の中に入った。
そして少女を博物館の中に連れ込んだ。
私はそれらのことに、唐突な嫉妬を覚えた。
久保君のくせに。くだらない人間のくせに、と私は心の中で毒づいていた。
ド変態のくせに、DV予備軍のくせに、雰囲気ポエマーのくせに、私には見られない美しいものが、彼の頭の中にあることにムカついた。そういうのがあるから、あなたはいつも自信満々で、ツイートするのも、女の子をさらうのも躊躇することなくできるんでしょ。
何をしていたんだろう彼は。博物館で、商店で、少女と、彼は何をしていたんだろう。
窓の外には雨が降り頻っている。半端に巻いた傘を片手に持った人が駅に着くたびにぞろぞろと入り込んでくるから、電車の廊下は濡れに濡れている。隣のおばさんは誰かの傘の先から滴る雨粒を足元に受け、鋭く舌打ちしてから両足を揃えて私の方へ寄せた。
おばさんが初めて発した声(音?)が鋭い舌打ちだったことに私はひどく動揺して、驚いて怖くなり、早く降りなきゃと思いながら、より窓に強くもたれかかった。
おばさんはきっと、私がイヤホンで音楽を聴いているから聞こえないと思ったんだと思う。残念ながら、けっこう前から私はイヤホンをつけているだけで、音楽はなっていない。
この急にこみ上げる攻撃性が、私の周りにはある。
雨粒は何も洗い流すことなく、短気な人の逆鱗に触れ、容赦なく悪態への導火線をたどる。わかる、イラッとするのは。だけど、私は今、人々の導火線の短さに驚いている。
音楽をかけなおす。
また電車のガタンゴトンと音楽のテンポが合わないことを不安に感じつつも、歌詞に耳をそばだてて、おばさんのイライラを感じないようにする。
「♪あめにまで、だまされて、もやがかかったこころを」
「♪とおくまで、とおくまで、つれていってくれよ」
全然きれいでも変でもない、丸ごと曇り空に飲まれてしまったみたいな光景はどこまでも続き、久保君が言っていたような町には、私では到底たどり着けないような気がした。
どこを見ても黄色く光る商店はないし、バス停で傘を回して待っている女の子もいないし、ましてや24時間営業の博物館なんて、そこで朝を迎えるなんて、そんな光景に、私では出会えない。
出鱈目に電車に乗ってみても、イヤホンで耳をふさいでみても、各駅で繰り返すアナウンスで、私はどこにいるのかが分かってしまって、なかなか遠くまで心を運べない。
夏にやる、夕暮れ時のバーベキューの、二の舞だ。
香りだけ、かがされて、犬のように駆けまわるだけで、そこから動けず、発生源にたどり着けない私は、いつも同じ轍を踏むのだ、歴史は繰り返す、既定路線ダンシング。最初から決まっていたんだ。
自虐的な気分になって、もうフォローしてなかった@sei-taroのツイッターアカウントを開いてみた。私と付き合っていた頃は800弱だったフォロワーの数は1000人を超えていた。
約20分前にツイートしてた。
女の子の後ろ姿と雨上がりのキラキラした街の写真。
「いやなことすべて洗い流されたみたいにきれいになった、雨上がりの街の光景を君と見られてすごく嬉しい」と言ったら、なぜか細い親指を内側にいれた可愛いグーで肩パンされました。骨が食い込んで予想外に痛かったけど、悪くない。痛みがうれしい。僕って好きな人の前ではドMなのかも。」
いいねがもう48もついてる。
は、と笑って。
くそ、くそ、くそったれ… と。
私はすごく小さな声で、誰にともなく、悪態をついてみた。
隣のおばさんに聞こえたと見えて、空気で目を見開いてるのが分かる。
最近の若い子は怖い男の子みたいなことを言うのね、みたいな荒い呼吸をしている。
うるせえうるせえ舌打ち聞こえてたぞ、と思いながら私はもうすっかり晴れた窓の外をうっとりとした顔を作り、それから遠くを眺め、今日の旅を、「おいしい担担麺を探す」という目的に変更することにした。
雨だれくそったれ(完)
※ゲスの極み乙女。『パラレルスペック』より、歌詞を一部引用しました。