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トンチンカン

あの家にまつわるあの家の人達の記憶は薄く、今やほとんどすべてが音の存在です。
あの家の工場の職人たちと話したことはある。職人たちと家族の飯炊きをしながら掃除や風呂焚きまでこなす忙しそうな奥さんと話した束の間の時間も、その風呂を借りたことも覚えている。塗炭を張り巡らせた、大きくて、わりに薄身の印象がある作業場から立ち昇る煙は深い黒で、夏の表通りではまだ舗装されていない道路の上を自転車が過ぎる度に黄色い土埃が舞う。黒煙と黄色い土埃を視線で貫けば、均一の、薄い青が広がっていることも覚えています。
自宅へ帰るために人通りの多い市街地を抜け川の方へ歩いていくに従って、視界も空気も整然と開け、ほとんど無意識のうちに呼吸が深くなって、枷が取れたように走って帰ったことも、しっかり記憶していますよ。
しかし私の記憶に強く染みついているのはそういう光景よりもむしろあの家、あの町の真ん中にある鍛冶屋の作業場で、鉄を叩くトンテンカンの高いリズミカルな音です。
鍛冶屋の近くに※馬喰(ばくろう)の家があって、ときおり馬の嘶きが低く響いた。それより馬が糞を落とす音が強く響く気がしたのだから、私はなかなか神経質で潔癖な少年だったのかもしれない。
たまに鳴るサイレンは、今考えればたまにという頻度ではなかったですよ。これも私の気持ちを高ぶらせた。好きな音なのか、嫌いな音なのか、我ながら判然としないものです。

※馬喰……馬の売買をする仲介業者

そんな音に溢れた時代の記憶の中で、ただ一人、姿も形も、仕草も声もすっかり覚えている女性がいます。記憶の中の彼女は、女性と言うにはまだ幼い女児でありますが、当時の私にとっては憧れのお姉さんで、過去を振り返るとき私は必ず彼女との思い出を起点にすることになる。
そうすると、激しい音に塗れただけの漠然とした記憶が、少しずつ映像を伴って現れるのでした。
その映像はまた、成人した彼女の姿の想像をする材料になりました。あの二重瞼の目に、少し丸い小鼻とふっくらした唇。手足は細く青白いくらいで、それでも外では、いえそれだからこそなのか、日光の白い光をよく跳ね返しているように見えた。
何度か一緒に、あの鍛冶屋の家で湯をもらったことがあるけれども、職人さんたちが入ったあとの、少ないお湯、汚いお湯に彼女の足がポチャンと入って行くところなんかは、音よりもむしろ映像でよく覚えています。複雑な気分になったのを覚えている。ただ、今考えれば彼女の身体を私はよく見なかった。手足の白さから想像するに、お腹も、お尻も、餅のようなものだったに違いありませんが、微かに視界の端で捕える程度で、彼女の裸を直視しないようにしている程度には私も大きくなっていたし、彼女を異性として認識していたのでした。
あとになって想像の中で、少し背が伸びておとなの身体になった彼女の裸を想像しました。
裸どころか、実はごく限られた一時期しか会わなかったものですから、顔つきも声も、そして性格も想像するしかないのでした。しかし随分大人になってからも、彼女以上の美人はいないと決めつけて、ついにはお嫁さんを貰う機会も持たないままにただ歳を取ってしまいました。
いつも、幼い彼女を自分と同じ年の頃まで成長させては、妄想の中で着せ替え人形のようにしては会話を楽しみ、子どもの頃のような睦まじさで過ごしてきたんですよ。

あの年、昭和29年。
9月に大きな台風があった年だからよく覚えていますよ。
たしか5月ごろから天候は悪かった。
5月の10日ほどになるというのに小雪交じりの雨が降った異常な年で、気温は容易に上がらず底冷えする日が続きました。その後も例年と比べると雨が多い印象で、8月の、そろそろ盆の時期になるという頃になっても夏らしくない、パッとしない天気が続いていたはずです。農家の我が家は毎日戦々恐々としていて家の中は息が詰まった。
そこで、その8月の晴れたある日、何となしという距離ではありませんが家を出て、彼女のいる鍛冶屋の裏庭に遊びに行くことにした。4月から町に来た子だと言いますがどんな理由で来て、どんな理由で去って行ったのか、幼い私には分かりません。とにかく私はその春に、裏庭にいる彼女と出会っていて、それから彼女がどこぞへいなくなるまで、足しげく通うことになっていたのでした。
その日、夕暮れ時にはまだ間があるけれど、太陽はもう南天を過ぎている、というような頃合いに、あの鍛冶屋の裏庭に辿りつきました。
長く続いた雨が庭一面をぬかるませており、根本から倒れたユリの花茎を彼女、鮎子さんは、砂利の上に敷いた薄黄色のビニールシートの上に並べていました。
薄黄色のビニールシートだったか、それとも、白いビニールシートが汚れてああなっていたんだったか。記憶が疑わしいところもありますが、まあ些細なことです。
とにかく鮎子さんはユリの花を並べていた。
あの庭にはそこら中に無造作に、ヤマユリが立ち並んでいるのでした。
根腐れを起こしたユリだけでなく、まだ根がしっかりしてるものも鮎子さんは手で引っこ抜いて並べていました。精々10株ほどだったと思いますが、それでも幼い私には大それたことをしているように思えました。
足も手も泥んこにして、紺色のワンピースもよく見れば泥がべったりついている。
私はヤマユリの花に混じった黒い粒模様が苦手だったものですから、鮎子さんのやっていることがやけに気味悪く見えたものです。不快なものは苛めても良いとは思いません。鮎子さんは良いと思うタイプだったのかもしれませんが、私は何かに危害を加えると仕返しされると思う小心者ですから、それが嫌いなものであればなおさら、彼女のやっていることが怖くて仕方ありませんでした。
だけど彼女に「よっちゃん、よっちゃん、こっちへおいで」と言われれば行かれないということにはなりませんし、彼女の手招きはいつも魅力的だった。
しぶしぶながら、鮎子さんのヤマユリ退治に手を貸そうとしたとき、折よく手漕ぎのポンプを押しに来た、恐らく鮎子さんのお母様らしき人に見つかって、彼女はあっという間に納屋の方へ引っ立てられてしまった。
慌ただしい暴力の気配と、彼女の引きつるような声によって、膝に抱えられたまま尻を叩かれているのだと直感しました。
その音も私はよく覚えているのですが、あの紺色のワンピースが捲し上げられて、彼女の白い尻が叩かれている姿も、潜在的な妄想の材料としてずっとずっと、私の頭にあるのでした。
かわいそうにと思うものの、言わんこっちゃないという可笑しい気持ちもありまして、そういう相反した二つの感情が一緒くたになるような、妙に心惹かれる可愛い女の子だったのですよ。

騒ぎを聞いてか、間もなく鍛冶屋の奥さんも庭の方に寄りましたが、鮎子さんに強く言えないのか、ただ鷹揚な性格なのか、彼女を叱る様子も困った顔すらしないようでした。彼女のお母様が強く叱りすぎていたからかもしれませんが、「ユリの花もねえ、どうしてだか増えてしまって」と検討違いに見えるようなことを言ったきり、自分の仕事にかかるのでした。奥さんなりの庇い方だったのかもしれません。
今にして思えば、鮎子さんのお母様があれほど激しく鮎子さんを叱ったのは、多少パフォーマンスの意味もあったのでしょう。鮎子さんが何かをしたときに強く叱っておけば、家の人は鮎子さんを慰めてくれるでしょうから、あえて敵役に回っていたのかもしれないと思うのです。そう考えると、あの当時鮎子さんとお母様の立ち位置は、決して居心地の良いものではなかったのかもしれません。

そう、他所の子に大しては皆、比較的鷹揚なものです。
あんなに鮎子さんのことを叱っていたお母様も、私がいると気付くや「ごめんなさいねよっちゃん、あの子のバカに付き合ってくれてね、また遊びに来てね」と優しく言うのでした。
遠回しに、「すまないけれど今日はもう帰ってね」と言っているのだと勘付いた私は、ほとんど鮎子さんと話もしないままに、あの鍛冶屋の庭を後にしました。
あの日、家に帰る気にもなれず、かと言って行くあてもない私は、市街地をぶらぶらと歩いては、鍛冶屋の前を行ったり来たり、鮎子さんがひょっこり出て来ないかと思いながら歩くのでした。
トンテンカンの音は鳴りやまず、その割に作業場には声がなく、職人たちは掛け声もかけ合わずに黙々と鉄を打っているようでした。
あの後どう過ごしたのかは覚えていませんが、なんとかかんとか時間を潰し、結局送ってもらって帰った頃には真っ暗で、ひどく叱られたのを覚えています。
鮎子さんが叱られて、私とろくに話もできないままに引っ込んでしまったことを、幼い私は気にかけていました。彼女だけが叱られたのは、私の裏切りのように感じなかっただろうかと考えました。危害を加えると絶対に仕返しされるという私の考えは、少々病的なようでした。ユリの花を抜いて尻を叩かれた鮎子さんを見て、その感覚はいつもより強くなっていたのでしょう。
私も一緒になってヤマユリの花を引っこ抜いていたらどうなっていただろう。私も鮎子さんと一緒に叱られることができたかもしれない。私がぐずぐずしてたから、ギリギリ共犯にならずに済んで、鮎子さんだけが罰せられた。これは裏切りじゃないだろうか。
もっと早くあの庭に辿りついて、例えば鮎子さんが5株ほどユリを抜いた段階で辿りついていれば、一緒にヤマユリ退治ができた上、一緒に泥だらけになって、一緒に叱られたかもしれない。
そうならなかったのはすべて自分が怯懦なせいだったと私はこれまでずっと考えているのです。あのとき一緒だったらば、今も私は鮎子さんと縁があったんじゃないだろうかと思うのです。

とにかく彼女と一緒の運命だったなら、今日も一緒にお湯に入れたかもしれないと私は考えながら町を歩いていました。それまでも、一緒に遊んで汗みずくになってお湯を貰うということがあったからです。鮎子さんのお母様が汲みに来ていたのはお風呂用のお湯で、思えば奥さんもお湯の準備を始めようというところだったのです。
ああ惜しいことをしたと思いながら、私が潰していた時間というのは、鮎子さんがお風呂に入るまでの時間でした。
私は、鮎子さんは毎日一人でお湯に入っているのだろうか、などと、いろいろなことを考えました。歩きながら片手をアゴの下に当てて、鮎子さんは一人では何をするか分からない、いつも何か悪巧みをしている鮎子さんのことだから、一人で入れられるわけがないと推理ごっこのようなことをしました。
お母様と入るのが自然かと思う一方で、おそらくお湯を使うのは最後になるだろう鮎子さんのお母様の順番まで、あの汚れた鮎子さんを放っておくものだろうか。
仕事で汚れた職人の誰かと一緒になって身体を洗うのではないかという予感がして、そうすると居ても立ってもいられなかった。
私は町を散漫と歩いているフリをしながら、あの鍛冶屋のトンテンカンを聞いていたのでした。あの音が止んで、それから、食事をとるのだろうか、それとも先に風呂なんだろうか。もしかしたら揃って食事をするわけでなく、親方から風呂に入ってお弟子さんたちは先に食事を済ますのかもしれない。
鍛冶屋のルールは、農家の私には分かりませんでした。農家も、食事は銘々とれるときにとるという風でしたから、鍛冶屋もそうかもしれない。
あたりがすっかり暗くなって、トンテンカンの音が止んだと見ると、私は鍛冶屋の庭に潜りこみ、鮎子さんが尻を叩かれていた当たりに座り込んで、お風呂場の音に聞き耳を立てていたのでした。

鮎子さんの声はすぐに分かりました。
男性の声もして、やはりお弟子さんの誰かと一緒にお湯に入ってることが知れました。
私の前では終ぞ聞かせない嬌声を、鮎子さんは惜しげもなく発しているのでした。あの当時、随分大人に見えたものですが、お弟子さんは精々が17、8歳でしょう。少ししたらお嫁さんを貰っても良いという年で、対して鮎子さんは、私より2つほど上の印象ですから、ようやく10か11歳という頃合いだと思います。
お弟子さんの方では子どもと遊んでいるだけだったでしょうが、鮎子さんの方ではどうだったでしょう。比較的自分と近い若い男性に淡い恋心を抱いていたのではないか。
私は彼女の声、湯が流れる音、それから男性の低い笑い声を聞きながら、そんな切ない想いにとらわれて、人の家の風呂場の影に隠れて、8月とは言えあの寒い年、下ズボンを今さら泥で汚しながら長い時間を過ごしたのでした。
お弟子さんの顔は分からず、想像しようとしてみればしてみるほど、あのトンテンカンの音が頭に響きます。たくましい黒い腕が、赤い鉄を叩くところが頭に浮かびました。太く黒い腕と、鮎子さんの白く細い手足を比べて想像しているのです。
寒いわ怖いわ情けないわで結局泣き出して、ようやく見つかった私はお弟子さんの一人に家まで送り届けられたのでした。


あの時代のトンテンカンは鮎子さんの尻を叩く音と次第に重なり、私の性の目覚めを笑う惨めな嬌声となり、まだ、まだ激しく鳴り響いているのです。

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折原圭
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