映画「パーム・スプリングス」感想 ~古今東西タイムループものについて~
※「パーム・スプリングス」含めた、複数の映画のネタバレがありますので、ご注意ください。
1.タイムループ映画の最新バージョン
映画「パーム・スプリングス」は、友人の結婚式場を抜け出して、ふと奇妙な洞窟に立ち入ったことから、ある1日をループするようになってしまう男女二人の「タイムループ映画」の最新バージョンだ。
この映画の新しさは、ループしているのが自分だけではない、というところだろう。一緒にループし続けくれる女性がいるのだから、孤独にループし続ける世界とは、まったく異なる。この発想は非常に面白かった。ループをしているのが一人ではなく、主人公の男女ふたり、さらに男を時折殺しに来るロイや、結婚式でスピーチを褒めてくれていたおばあさんまで、実は延々とタイムループを続けているのだ。
2.古今東西のタイムループものについて
映画の感想は途中だが、古今東西のタイムループものについて語りたい。
この作品の直接的な元ネタはビル・マーレイの「恋はデジャ・ヴ」だろうと予想する。
「恋はデジャ・ヴ」は、これもふとしたことから、グラウンドホッグデーというペンシルベニアの田舎のある伝統行事の日をリピートする「ループ」に入ってしまうという映画だった。
ループしながら恋人と真実の愛を画策していくのは、非常に似ているのだが、「恋はデジャ・ヴ」では相手はループしないので、毎日イチからやり直しとなる。「パーム・スプリングス」は、たぶんこの作品の変奏曲をやっているのだろう。「恋はデジャ・ヴ」も大変な傑作なので、是非ともお勧めしたい。
「タイムループもの」というと、これも前述の「恋はデジャ・ヴ」フォロワーで、記憶している方がどれだけいるかはわからないが、個人的にはフジテレビの「世にも奇妙な物語」の『そして、くりかえす』(1998年)という一話があった。ウッチャンナンチャンの内村光良が主役で、「恋はデジャ・ヴ」と同じく、ある1日を繰り返し、死んでも何しても翌日には自分のベッドに戻っている、という話だった。好きな女性のために最後命を賭して守るのだが、守れたものの結局また次の日が始まって、「かっこわりー」と叫ぶというオチだった。
漫画だと手塚治虫の「火の鳥 異形編」もギリシャ悲劇のようなとんでもないタイムループものだった。これは左近介という若い(実は女性の)武士が、ある山寺に押し入り、八百比丘尼という尼さんを斬殺してしまう。この尼さんは、死ぬ前に「この場所は時が閉ざされております。あなたは死ぬまでここから逃れられぬ」と言い残す。左近介はその予言通り、山寺から出ようとしても出られず、山寺にこもりきりになる。そこで八百比丘尼のふりをして不思議な羽で訪れる人々を治療したりする。そのうちに湖から流れ着いた旗を見て、自分が応仁の乱の直後、約30年前に戻ってしまっていることを知る。そして30年後、左近介たる自分が、今は八百比丘尼となっている自分を殺しに来ることを悟る。火の鳥があらわれ、自分に殺され続ける輪廻のなかに永久に居続けるのだということを伝えられる。。。という、そんな話だ。これも、とんでもない傑作だった。
3.「タイムループもの」とは何か
私は寡聞にして同じ1日をループしているという方に、実際にはお目にかかったことはない。しかし、この「ループ」というテーマが普遍性を持ち、上記のような作品群が生まれてきたということは、人が同じような日常生活の繰り返しで生きているからであり、誰にとっても人生はループのように感じられる瞬間があるから、といえるだろう。
タイムループを疑似体験することで、人生の刹那的な喜びも知ることができるし、それを重ねても何も変化しないという虚しさも知ることができる。あるいはどこまでも人は自分の主観から逃れられないという孤独にも苛まれるし、同じ境遇にいる人の代え難い有難さも感じることができる。
永遠のごとくつづく同じような日常生活は、ときに煉獄のようだが、この作品のロイのように人生のもっとも美しい時間がつづいているとも捉えることができる。
4.ループの幕切れ
この「パーム・スプリングス」におけるタイムループの幕切れは、ふたりの愛の成就とともに爆弾が爆発することで、時間の煉獄を超えて、ループの外側の時間へと飛び出していく。「恋のデジャ・ヴ」と比べると原因と結果がより直接的で、若干興ざめな部分もあったが、最後にロイが主人公に話かけて、その反応の無さでループからの脱出を知るというのは、とても良い幕切れだった。
90分でここまで楽しませてくれるのだから、これこそ正統派の娯楽映画といえるだろう。
タイムループ好きなら。(★★★★☆)
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