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title『吾輩はネコチャンである。』
文章版『ねーちゃんの日常』その4
吾輩は猫である。名前はカワイイ=ネコチャンという。
ニンゲンなる生き物と共に暮らしているのだが、このニンゲンというもの、年齢が全くわからない。見た目で言えばとうに道端で枯れ果てておってもおかしくはないのに、言葉はまだまだ赤子のようなのである。『ねんね』『おてて』『あんよ』などと、吾輩に話しかけるときも赤子のような言葉が大変に目立つ。もしかしたら、老けた顔に見える赤子なのかも知れぬ。
吾輩は年齢を根拠にどちらが偉いの偉くないのと議論するつもりは毛頭ない。そもそもニンゲンなるものは吾輩たちネコチャン族と違い、尖った耳も優雅な髭もない可哀想な生き物なのだ。よく見れば戦うための爪もなければ、手のひらに至っては全くの無毛であり、全身が吾輩の肉球のような質感をしている。丸出しである。
きゃつらは吾輩たちのお世話になぜか命を懸けている。
吾輩たちの放尿や排便に一喜一憂しする変態の側面もある。たまにはがっしと吾輩を捕まえて、柔な尻を拭いてみたり、研いだ爪を切ってみたりと迷惑この上ない変態である。
そのくせ「ごはん」と鳴いてもイマイチ理解出来ないことが多いようだ。日に十度「ごはん」と言っても、聞き取れて三〜四度といったところである。吾輩たちを崇拝するなら言葉くらい学んで欲しいものだ。ゆっくり発音してみても、きゃつらは耳を貸さないときもあり、誠に腹立たしい限りである。
催促のために机の上、目の前に座ってみても、素知らぬ顔をするか、吾輩のもふもふの腹に顔を埋めてくるかである。吾輩の腹は我ながら大変にふかふかであり、太陽の香りが立ち上る素晴らしいものではあるが、全身肉球の気色悪い生き物に貸してやる義理はない。ちょいと頭をはたいてやれば逃げるかと思いきや、にやにやと嬉しげに笑うなどして果てしなく洒落にならない。
ことほど左様にニンゲンなるものは吾輩たちにとって良いものとは言いづらいのであるが、とてもとても寒い冬の夜だけは、全身肉球のニンゲンが身に纏う偽毛皮をありがたく思う。ふりーす、とかいう毛皮らしいのだが、ニンゲンは自由に脱皮したり生やしたり出来るらしい。
しかしそれは冬だけらしく、偽毛皮の時期だけ吾輩はニンゲンの傍にて眠ることもある。そういうとき、ごくたまに、別れた母の懐を思い出す。
そういうときは稀に稀に、ニンゲンなるものと暮らすのも悪くないなどと、ほんの手遊びに偽毛皮を揉みつつ思うのである。
ああ、今日もぬくいことだ……。